2010年9月27日月曜日

「IBM」と「HAL」の関係

HAL東京
インターネットに「ワイドユニバーシティ」というフリーの大学講座があるが、本日のブログではそのインターネット関連講座で慶応大学の村井純教授が話していた興味のわく話をひとつご紹介しよう。

この村井教授であるが、NTTがまだ電電公社といわれていた時代に、苦労して日本のインターネットの礎を築き、わが国のネットの発展とともに歩んできた言わばこの世界の重鎮なのである。

今回のタイトルになっている「IBMとHALとの関係」ということについてはこれまで巷では「ある」とか「ない」とか取り沙汰されてきたが、それはともかくとして、今日のテーマの中心はその一方の「HAL」についてである。

「HAL」と言えば、今では知らない人もないほど、設立以来めざましい発展を続けているコンピューターの専門学校なのだが、興味が湧いたのはその名前の由来に関してである。

講座での村井教授の話によれば、「HAL」という名前は関係の深い「IBM」の名前に関係づけて付けられたものであって、三文字のアルファベット各文字はすべて「IBM」の一つ前の文字によって構成されているのである。

つまり、「Iの前のH」「Bの前のA」「Mの前のL」というふうに文字をあてていき、その結果が「HAL」という三文字になったのである。

これは一種の暗号だそうで、名前をもって暗に関係先を示す意図があるのだという。

それにしてもよくできているではないか、そのまま読めば「ハル」で学校の入学季節の「春」をも連想することもできる実にいい名前ではないか。

ところで肝心の「IBM」との関係であるが、学校関係者は今のところそれをはっきり認めていないので、インターネット情報を調べたところ、「関係ある」という確たる証拠はつかめなかった。

しかし、IBMからパソコンなど多くの授業教材を譲り受けていたり、名古屋の学校はIBMの入っているビルの隣にあったりして、そうした状況から見てもどうやら「関係ある」という方をとった方が自然なのではないだろうか。

そうしたことはともかく、名前の由来ということに関して、興味のわく話題ではあった。

2010年9月25日土曜日

クラシック珠玉の名曲をあなたに(その5)

ピアノ曲集(5)
ショパン「ノクターン2番」
 

ショパンの曲の中でもとりわけファンが多いのがこのノクターンなのだが、

数ある曲のすべてが最後まで安心して聞ける安定したものばかりではない。

この2番は、他の3曲、つまり5番、8番,9番とともに、数多くの作品の中でもっとも旋律が安定しており、

終りまで安心して聞けるメロディの美しいすばらしい曲で、

まさに珠玉の名作品と言って間違いないだろう。


[Link]
http://classic-midi.com/midi_player/classic/cla_Chopin_nocturn2.htm

               インターネットサイト Rein Music 「クラシックMIDI」より

2010年9月24日金曜日

女性客もよく来る ・ いま「立飲み酒場」が大盛況!


私の住む兵庫県姫路市の繁華街、JR姫路駅と山陽電車姫路駅の周辺には、わずか半径100メートル以内という狭いエリアだけでも「立飲み」と呼ばれる酒場は10軒以上ある。
 
その多くはここ3年ぐらいの内にできたもので、それ以前はあっても3〜4軒という程度であったはずだ。

それがまたたく間に倍以上に増えたのだから、現在のこの種の店の隆盛ぶりがいかにすごいかよく分かる。

立飲み店の魅力はなんと言ってもその値段である。

一般的に言って、ごく普通の居酒屋にくらべても2〜3割りぐらい安く、一週間に居酒屋だと3回しかいけなくても、立飲みだと4回はいけるのである。

したがって安サラリーマンの「飲んべえ」にとってこれほどいい所はない。

さらに立飲み店は安価な分だけ回転率を重視している。

それゆえ客としても必要以上に長居はできず早く立ち去る為、これがまた健康にいいのである。

そのうえ立って飲むので足腰が強くなる。

まさにいいとこずくめで、これで流行らぬわけがない。

と、ほめてばかりで、どうやら今日は「立飲み店」の宣伝のためのブログになってしまったようだ。

傑作ジョーク(6)作家のおもしろペンネーム3題

(その1)

イザヤ・ベンダサン

(代表作)   「日本人とユダヤ人」

(筆名の由来)  いざや、便出さん


(その2)

 阿佐田哲也

 (代表作)   「麻雀放浪記」

 (筆名の由来)  徹夜して朝だ



(その3)

 江菱えいご

  (代表作)    「編む女」

(筆名の由来)  ABCは英語です  

小学校の英語教育、はたしてその効果は?

様々な紆余曲折を経て、いよいよ2011年の来年度から小学5,6年生を対象にした週一コマの「英語の授業」が正式に始まることになっている。

だが、はたして教職員や父兄を初めその他の関係者はこの授業にいったいどれくらいの効果を期待しているのであろうか。

もちろん授業展開にはプロのネイティブスピーカーをはじめ、その助手にも児童英語指導の専門教師があたるのであろうが、授業の質とか展開方法はさておき、最も気になるのは週一コマという授業の量である。

かつて私は17年間に渡り、ある民間の児童英語教育関連の組織に所属していた。

その17年の期間を通して、ずっと模索を続けていたのは「学習効果」という問題であった。

全国規模で幼稚園児と小学生を対象にして「英会話」を指導していた組織であるが、私の管理下の兵庫県の一部の教室だけでも、多いときには600名もの生徒を抱えていた。

授業は週一回60分で、その量の少なさが効果をあげる上での大きなネックになっていた。

そのため父兄の協力を得て、生徒が自宅で予習、復習を含めて、どれくらい多くの時間を授業のフォローに当てるかが、効果を考える上で大きな課題になっていた。

考えてもみて欲しい。

いったい週一時間という時間の量が、子供が持つ全体の時間に対してどれだけの割合を占めるのかということを。

大人にも子供にも、人には皆一律に一日24時間がある。

その内平均的な睡眠時間8時間と、予備の1時間を除くとして、平均的に15時間ぐらい、世の中と接する時間がある。

それが一週間だと15×7で105時間となる。

その105時間の内で、英語の授業を一時間とすると、子供が起きている時間の実に105分の1でしかないのである。

つまり予習復習などせずに、他の時間にまったく英語の接しないとすれば、残り104時間は子供たちはずっと日本語を媒体として世の中と接しているのである。

だとすると、この週に一時間だけ学んだ英語というものは、瞬く間に圧倒的な量の104時間の日本語の中にうずもれてしまい、時を待たずして見る影をなくしてしまうのではないだろうか。

そうならないためには学校での授業以外に、できるだけ多くの時間、子供たちが英語と接する機会をもつようにしなければならず、そのためにはビデオなどの視聴覚教材を使った自宅学習の奨励を徹底し、父兄の後押しを得てそれを強力に実行していかなければならない。

そうしない限り、効果などを期待することはできないのではないだろうか。

半年先に迫っている小学校英語授業開始を前に、関係者はこのことについて今一度よく考えてみて欲しいものだ。

2010年9月23日木曜日

ビートルズ余聞

少し古いが、1991年発行の「講談社英語文庫」の中のボブ・グリーン著「チーズバーガーズ」という文庫本に「ビートルズ」にまつわるおもしろい話が載っている。

英語文庫だから、もちろん英語で書かれているのだが、比較的平易な英文なのでそれほど高い英語力がなくても読める文庫である。

全部で27の作品が載っているのだが、その最後の27番目がこの作品である。

タイトルは

「The Strange Case Of The Beatles’Bedsheets」というもので、訳せば「ビートルズの使ったベッドのシーツをめぐる不思議な話」というような意味である。

話の内容はこうである。

ビートルズが1964年に最初のアメリカ公演をした時のことである。

その頃のビートルズの人気と言えば実にすさましいもので、「彼らの触れたモノはすべて金になる」と言われるほど、人を超えてまさに神ともあがめられるほどのスーパーヒーローであったのだ。

その人気に乗じて一儲けしようと企んだのはシカゴのテレビ局に勤める2人の若いディレクターであった。

そこで彼ら、リッキーとラリーは一策を講じた。

そしてまずビートルズの泊ったデトロイト、カンサスシティの、2ヶ所のホテルのマネージャーと交渉して、彼らが宿泊した部屋のベッドのシーツとピローケースを支配人の証明書付きで、いくばくかのお金を払って譲り受けた。 

その後そのシーツとピローケースを一インチ四方の大きさに切ってその数164,000枚の布切れを作り、それを証明書つきで、一枚一ドルで売ることにしたのである。

うまくいけば一挙に164,000ドルの大金を得ることができると、彼らは試算していた。

まずそこまではアイデアとしても悪くなかった。

しかし彼らの期待をよそに、それらの価値ある?「布キレ」はまったく売れなかったのである。

二人は「こんなにすばらしいアイデアがなぜ駄目だったのだろう」と、その原因について考えてみた。

世の中にビートルズのニセモノのキャラクター商品があふれすぎていて、これが本当にビートルズが使ったシーツの布切れだと信じてもらえなかったのだろうか、

彼らはそんなことも理由として考えていた。

さらに悪いことには、ビートルズの弁護士から「断りもなくビートルズを商売に利用した」と違反を通告する書面が送られてきたのだ。

二人はせっかくの金儲けのアイデアが実らなかったばかりでなく、物心両面で大きな損失を被ったのである。



(内容は抜粋)

通勤途上に出会った白人外国人男性に関しての「マナー」にまつわる話2題


朝九時ごろだった。

JR姫路駅へ向かう途中、タクシー乗り場付近に立ち止まっていた若い外国人男性が目に留まった。

スーツ姿がきまった背の高いとてもルックスのいい白人だった。

まるで映画スターを思わせるほどのあまりのかっこよさに、私は歩きながらその姿に見とれていた。

すると、相手はこちらの視線に気づいたのか、少し表情を曇らせると突然私の前を歩き出した。

そして少し進むと、少し大きめな声でとつぜん言葉を発した。

その外人との間隔は2メートルほどしかなく、はっきりとその言葉は聞きとれた。

それは「Fuck you!」というものだった。

たぶん、日本人の私にジロジロ見つめられたことが気に食わなかったのに違いない。

マナーを考えず、じろじろと見た不注意な私が悪い。

次は神戸に向かう電車内でのことである。

その30代ぐらいの白人男性は明石駅から乗ってきた。

ドアの近くの4人がけのボックス席の進行方向とは反対向きの席に座った彼は、進行方向を向いていた私とは二メートルほどの間隔は空いてはいたが向かい合わせる形になった。そのため、その動作がよく目に入った。

座席につくや否や、たぶん「ipod」だったろうか、それにイヤフォンを繋ごうとしていたが、やにわにその動作を中断すると、電話がかかってきたのかポケットから携帯電話を取り出して耳にあてた。

感心したのはその後であった。

彼は話し始める前に口と耳にあてた携帯電話を二つの大きな手の平ですっぽりとカバーして、まったく音が漏れないようにして、その後ゆっくりと話し始めた。

声も小さめに抑えていたのだろう。その声はまったく辺りにもれてはいなかった。

原則禁止の車内での携帯電話だが、そんなことお構いなしで周りに気兼ねなく堂々としゃべっている人は多くいる。

でもその白人男性のように両手ですっぽり覆ってしまって、声がもれないようにして話している姿などあまり目にはしない。

やはり、この人たち白人は母国欧米で、公衆の面前でのエチケットをしっかりと仕込まれているのであろうか。

大いに見習う点ではあった。



 

2010年9月21日火曜日

「老人会」は名前を変えなければもはや存続できない

昨日の敬老の日にちなんでの今回のテーマである

「老人会「あるいは「老人クラブ」と呼ばれている高齢者の親睦サークルだが、このところ加入者が急激に減少してきているという。

その対策のために一部ではイメージの良くない「老人会」という名称を変える動きもあるようだ。

やや遅きに失した感は否めないが、でも今後の発展を考えたら大いに結構なことで、一部だけではなく日本のすべての老人会にそれを望みたい。

考えてもみてほしい。

50年以上の歴史のあるこの会だが、スタートした頃、老人と呼ばれた人々の状況を見てみると、例えば、50年前の1960年ごろの平均寿命は男65歳、女70歳ぐらいでであった。

ところが現在の2010年のそれは男79歳、女86歳で、50年間で実に男女平均で15年も寿命が延びているのである。

つまり、60歳を老人の始まりととらえるとするならば、50年前の余命は男5年、女10年でしかなかったのである。

それが現在では男19年、女26年と平均3倍ぐらいも余命が伸びているのである。

そうした状況下で、現在の65歳以上を一律に老人と定めるのはおかしいし、ましてや50年前と同じようにそうした人々をいっぱひとからげにして「老人」と呼ぶこと自体がおかしい。

だいたい「老いた人」という意味の老人という呼称自体イメージが良くない。

肉体年令、精神年齢には大きな個人差があって、暦年令だけで決して実態を捉えられるものではない。

70歳ぐらいになっても平均的な50歳ぐらいの人に負けないような心身ともに壮健な人はいくらでもいる。

いま会員不足で存亡の危機を迎えている老人会だが、そもそももっと早い時期にこうなることを予想して、魅力ある会の名前に変更しておくべきだったのである。

でも過ぎたことは仕方がない。

さっそく今からその名前の策定に入り、一刻も早く改名して欲しいものだ。

さしあたりどんな名前がいいだろう。

シルバーサークル、シニアクラブ、生涯現役クラブ、高齢者睦会、とっさに思い浮かぶのはこれくらいだが、

その名前次第では、当方としても入会を考えなくもない。

大平庸夫のブログ「生涯現役!!日記」紹介



「ブログタイトル」 
生涯現役!!日記


「ブログのサイト名」 google blogger


「スタート年月日」 2010年6月23日


「ブログの長さ」 一ブログ1000字~3000字


「ブログのスローガン」

幅広い年代層に支持されるようなバランス感覚を保った意見が発表できたらいいなと思っています


「ブログのスタイル」 関連写真入、横書き文章


「大平庸夫のペンネーム」 江菱えいご(e.ebisi)


「ブログの更新」 最低でも月に20回以上


「ブログの数」 月20テーマ以上

なお、このブログはgoogle検索「生涯現役日記」でページ上位に載っています。
yahooも同様ですが、その他の検索では上位になっていないサイトもあります。

検索はURL「tuneoo.blogspot.com」だけではなく 「生涯現役日記」 「Tuneo Ohhira」「大平庸夫」 「e.ebisi」 「e.ebisiの人気ブログ」 などでも可能です。

2010年9月20日月曜日

大平庸夫(江菱えいご)の小説紹介

この中編小説集は江菱えいご自慢のエンターティンメント小説5作品です。

この中で1と2は講談社「小説現代新人賞」および文芸春秋「オール読物新人賞」で好成績をおさめた自信作です。

舞台は1,2,3が大阪市、4が姫路市、5が岡山市となっています。



「編 む 女」 中編小説集


  [収録作品]
   
     1 編む女

2 ナイトボーイの愉楽

  3 下津さんの失敗(ナイトボーイの愉楽2)
       
  4 直線コースは長かった

  5 紳士と編集長




    
      「出版社名」電子書斎

       A5版 250ページ

      「発行年月」2010年4月

冷え性の女性はお天気キャスターには向かない

7月のブログに「プロ野球オールスター戦をいまだに夢の競演と呼ぶスポーツニュース女子アナウンサー」というタイトルでアナウンサーの言葉づかいに対するセンスについて批判記事を書いたが、今回は批判の対象がテレビの女性お天気キャスターになる。

一週間ほど前であったろうか、ある民放の10時に始まるニュース番組の天気予報で、去年から担当している女性お天気キャスターの使う気温の体感に対する表現が気になって仕方がなかった。

それは次のようなことだった。

9月に入ってもまだ厳しい残暑が残っていたとはいえ、その日は日中でも珍しく少しだけ秋めいた涼風が吹き、それまでの猛暑日とは違い比較的心地よく過ごせた日ではあった。

その少しだけ涼しかったその日の気温をこのキャスターは、なんと「肌寒い」と表現しており「明日もこの肌寒さは続くでしょう」などと言っていたのである。

もううんざりとするほど記録的に長く続いた猛暑のあとにやっと吹いたホッとする「涼風」を、何をもってすれば「肌寒い」などと表現できるのであろうか。

言うならば「あすも涼しい風が吹いて、心地よい天気は続くでしょう」ぐらいが適当なのではないだろうか。

それを「肌寒い」と言ったりするこの人の神経はいったいどうなっているのであろうか。

これに対しては二通りの考え方が思い浮かぶ。

一つは単なる言葉の使い方のミス。

そしてもう一つはこのキャスター自身が本当に肌寒いと感じ、そして自分だけが感じた人とは違った体感を率直にを述べたのかもしれない。

でもどちらにしても問題である。

もし初めのケースだと言葉づかいをしらなくてキャスター失格。

二つ目のケースだとその特異な気温に対する体感に問題があり、これもお天気キャスターにはまったく不向きなのではないだろうか。

実はこのキャスターの気温に対する表現にはこれまで何度も疑問を感じていたのである。

特に寒さについての表現に問題がある。

つまり、今回の表現のように本来なら「涼しい」というべきところを、それを通り過ごしていきなり「肌寒い」などと表現してしまう癖があるのだ。

でも、もし実際にそう感じるのなら、この人は極度な「冷え性の寒がり」であり、正しい気温を伝えなければならないお天気キャスターには絶対に向いていないのである。

視聴者としては、そんな的外れな間違った表現は聞きたくないのである。

2010年9月18日土曜日

生誕200年、ショパンはお好きですか?

ショパンが生まれたのは1810年で、同じ年の生まれには「トロイメライ」で有名なシューマンがいる。

1849年までの39年間の短い生涯を通して、数々のピアノの名曲を残してはいるが、その名曲と呼ばれる曲の中には聞き手をなんとなく不可解な気分にさせる旋律の不安定な曲が数多くある。

途中までうっとりと聞いていた美しいメロディが突然旋律を乱し、まるで同じ曲とは思えないほどの変化を来たし、その音調に首尾一貫性を欠いているため聞き手に失望を与えることが多いのもこの作曲家の大きな特徴である。

例えば数少ないピアノ協奏曲の中の、その「第一番」であるが、出だしからしばらくの間はこれほど美しい旋律の曲ががかつてあっただろうか、と思わせるほど実にすばらしいものなのだが、それがその後突如としてそれまでとは関連性が乏しい別種の旋律へと変わっていき「最初の美しさ、すばらしさはいったいどこへ行ってしまったのか」と思わせるほどのまったく異質の、言わば魅力の乏しいメロディに変わっていくのである。

聞き手としては「この突然の変化はいったいどうしたものであろうか」と、とまどってしまうのである。

また、ファンの間でもっとも人気のある「ノクターン」にしても、安心して聞けるのは2番をはじめ、5番、8番、9番ぐらいで、その他の曲は途中まで良くても、たいていは中程以降で突如旋律の「不安定さ」が出てきて、最後まで安心して聞き続けることができないのである。

こうしたことは、ほとんどの曲を安心して最後まで聞くことのできるモーツアルトなどとは大違いで、それがショパン人気がもうひとつ伸びない大きな原因にもなっているのではないだろうか。

でも、一部のファンの間では「その不安定さこそがショパンの曲の最大の特徴で、また大きな魅力でもあるのだ」などという意見もあるが、多分それは自分でピアノを弾いたるする人たちであり、難しい曲の流れで技術を練磨することができるプロの言い分なのではなかろうか。

聞くことを本分とするアマチュアのクラシック音楽ファンにとって大切なのは、なんと言っても安定した旋律によるぶれのない曲の流れではないだろうか。

とはいうものの、このショパンにも安心して聞ける安定した曲も数多くある。

例えば先ほども触れた「ノクターン2番,5番,8番,9番」や「雨だれ」「別れの曲」「スケルツォ第一番」などなど、私の好きな曲も多いのではあるが・・・。

2010年9月17日金曜日

今や不用品なのか?紙の辞書

気がついてみると、このところもう随分長い間、いわゆる「ペーパー辞書」なるものをひいた記憶が無い。

国語辞典、漢字辞典、英和辞典、四字熟語辞典など、これらすべてをこのところずっとネットのgoogle 検索で済ましている。

私の本棚にはもう長いこと手にとられたことがない、部厚い国語中辞典、英和中辞典、現代英英辞典、実用六法全書などが少し埃をかぶったまま鎮座している。

ネットのせいでほとんど出番のなくなっているこれらの「紙の辞書類」も考えてみれば哀れである。

購入するときの一冊づつの価格を考えてみても、決して安いものではなく、上記4冊だけでも2万円をゆうに超てえいるのである。

それらすべてが、今や無用の長物になりかけているのである。

「google検索」ならずとも今やネットに載ってない辞書は無く、膨大な量を誇るあの六法全書でさえ完璧に近い形で掲載されているのである。

しかもそれらは好きなときにすべて無料で簡単なクリック操作一つで利用できるのである。

ネット利用者のほとんどが今こういう状況にあるとすれば、これは辞典出版社にとっては存亡にもかかわる一大事である。

おそらく今、生き残る為の大きな経営戦略の変更を余儀なくされていることであろう。

でも当方としても、これら紙の辞書にまったく愛着がなくなったわけではなく、目にする度に「使わなくては」という一抹の愛惜の念は涌くのだが、でもクリック一つですばやく活用できるネット辞典の利便性には勝つことはできず、その思いが実行に及ぶことは今のところ無いようだ。

以前のブログ、「インターネットは物の価値を奪うのか」でも触れたが、そのときは対象が音楽CDや文学全集などの本についてであったが、この辞書については直接触れてはいなかった。

だが、考えてみるとこの紙の事典類こそ、ネットに価値を奪われる大きなの対象のひとつなのではなかろうか。

人々がこれまで長い間手にしてきた紙の辞書が、まず第一段階でポータブル電子辞書にその座を脅かされ、そして今、第二段階でインターネットに、今度は完璧に近い形でその存在を危うくされているのである。

でももうここまでくれば、時代の流れゆえの致し方ないことで、この「ペーバー辞書」が脚光を浴びることは二度と無いと思わざるを得ないような、いまや決定的な変革期を迎えようとしているのではないだろうか。

2010年9月16日木曜日

騙されやすい日本人

「日本人は騙されやすい」ということに関してメディアで論争になったことが一時あった。

2009年、イタリアのレストランとナイトクラブで日本人二組がたて続けにとんでもない額の金銭のぼったくり被害に遭い、それが大きくメディアで報道されたことが契機となってであった。

その論争では、もちろん「そうだ、騙されやすい」と主張する組と、「他国民に比べてもそうとも言えない」という組に分かれたのであるが。

しかし私はあえて思う。

日本人は騙されやすい国民だと。

その第一の理由は日本人は「権威」というものに簡単に騙されるからである。

権威の代表的なものはメディアである。

一説によれば日本人の7割がメディアを信用していると言い、これはダントツで世界一高い割合なのである。

つまり10人の内7人はメディアから発信されたことを即信じるのである。

ここでこのことを証明するためにわかりやすい例をひとつあげてみることにする。

これも2009年に起ったことなのであるが、一時「新型インフルエンザ大流行」というしつこいほどのメディアの報道が続いたことがあった。

それに対して民衆はどう反応したであろうか。

驚くべきか、私の場合は勤務地の神戸であったが、ここではもちろん、他でも流行の万延が予想された地域の人々の「総マスク化現象」ということが起ったのである。

道行く人、電車内の人、デパ地下で買物をする人、それらすべての人々の「総マスク化」なのである。

そのピーク時にはマスクをしていない人を見つけるのも難しいほどで、おそらくその数は10人に1人ぐらいではなかっただろうか。

私もその10人の内の1人であり、周囲から白い目で見られながらも、ずっとマスク無しで通した。

つまり、このときは7割はおろか実に9割に近い人々がメディアの報道を信じて、煩わしいマスク姿での外出となったのである。

結果としては、マスクの品切れが起っただけ(神戸では街頭にマスク売りさえ出ていた)で、報道されたような大流行は無く、おびただしいと予想された死者もほとんど出なかった。

今から思えば「市民総マスク化」という、実に空恐ろしいような現象が起っていたのだ。

さて、メディアの言うことを信じてほとんどの人がそんなに簡単にマスク姿に変わるような日本人なのだが、これがアメリカ人だとどうなのだろうか。

米国の多くのメディアは日本のインフルエンザ対策としての総マスク化現象に対して、その多くは「まったくクレイジーな現象で、信じられないほどばかばかしい」と報じていたのである。

米国ではマスク姿で歩く人は即インフルエンザ感染者であると見なされ、そんな人がなぜ街中を歩きまわるのかと人々は不審に思うのである。

したがって米国では街頭を歩く人の総マスク化などはありえないことなのである。

こうしたことは他のヨーロッパ諸国でもだいたい同じであり、昨年の日本のようにメディアの報道を鵜呑みにして民衆のほとんどがマスク姿になるなどということなど決した起りえないのである。

この例で見たように、報道されることの真偽を確かめようとしないでメディアを即信じる日本人の在り方については、当事者の私たちは今一度深く考え直してみる必要があるのではないだろうか。

話を冒頭のイタリアの件に戻すが、ぼったくりに遭ったこの事件が、なぜ権威に弱いということに関係あるのだろうか。

一見、そんなこととは無関係にも思われるのだが、しかしよく考えてみれば、これが大いに関係あるのである。

つまり、イタリア人は白人である。日本人は外国人のうちでは特に白人には弱い。

なぜ弱いかと言えば黄色人種の日本人にとって、概して外見の優れた白人が一種の権威のように感じられるからである。

劣等意識がもたらすものなのだが、これはもう、どうしようもないような抜き差しならぬ感情なのである。

したがってイタリア人に限らず優位に立っている白人にとっては日本人を騙すことなど、さして難しいことではないのではあるまいか。

「騙されやすい日本人」

こんなレッテルを返上するには、まずメディアをはじめとして、その他のあらゆる「権威」に対する抵抗力をつけることである。

それにはまず、すぐに周りの人と同じような行動をとったり、または思慮不足の安易な行動に走ったりせず、なににつけても一度疑ってみて、立ち止まってじっくり考えてみることである。

ちなみに、海外での日本人を巻き込んだトラブルは、年間1万7千件も起っていて、実に海外旅行者の6人に一人が何らかの被害にあっているそうである。

どうか、あなたがその被害者の一人にならないように!

2010年9月11日土曜日

今時、いったいどんな政治家が「赤坂の料亭」などへ通っているのだろうか?

一時ほどではないにしても、今でも「赤坂の料亭」に出入りする政治家は少なからずいるらしい。

でも何故だろう? 政治と金の問題がこれだけ大きくクローズアップされている昨今にあって、なんとなくいやな金の匂いがして、クリーンなイメージにはほど遠く、少なからず胡散臭さの漂う赤坂の料亭などに何故いまだにこだわり続けるのであろうか。

そうでなくても奥まった部屋での「ひそひそ話し」など、ネット全盛のオープンな今の時代には、時代遅れもはなはだしく、「料亭での会談」という、そのスタイル自体がもはや時代の風潮には合わなくなっているとも思えるのだが、にもかかわらずなのである。

あの小沢一郎氏でさえ、若手議員との会合には昨今では料亭などは避けて、庶民的な感覚の居酒屋を利用しているらしく、そうした光景がこのところよくニュースなどで流されている。

赤坂の高級料亭はごく短時間利用しただけでも、最低一人5万円以上はかかるらしく、いったいそんな馬鹿げた料金をもったいないと思わないのだろうか。

公金で支払われているから、そうしたことは意識に上らないのであろうが、でも、もしポケットマネーで出すのなら、たとえ政治家といえども誰もそんな所は利用しないであろう。

はっきり言って「赤坂の料亭」はもはや過去の遺物であり、言わばあの田中角栄氏に象徴されるような、悪名高いバブル時代の金権政治が置きざりにした残骸のひとつでしかないのである。

時代が大きく変わった今、これからの時代を担う日本の政治家たちは古い時代の悪しき象徴である「赤坂の料亭」などとはきっぱり縁を切るべきなのではないだろうか。

わが国の首相たるもの、清新なメッセージを国民に送るためにも、全政治家に対して「赤坂の料亭利用禁止令」なるものでも出していいのではないだろうか。

もし菅首相がこれをすれば、国民に喝采を浴びること間違いなしである。

それでもやめることができず、どうしても利用したい人は、どうぞご自分のポケットマネーで馬鹿げたことを続ければいいのである。

「赤坂の料亭」なにかくさい、くさい。

2010年9月10日金曜日

INFORMATION 「大平雪野の白寿を祝う会」

  

  日  程 10月16日(土)~17日(日)1泊2日

  場  所 塩楽荘(姫路市夢前町塩田118)

  プログラム 別項をご覧下さい

  会  費 大人1名 18,000円

      ただし同伴家族など2名以上分からは15,000円

      子供1名(小学生以下) 14,000円

  送迎バス 宿泊当日 10:40AM, 15:30PM

      (のりば) JR姫路駅南口観光バスターミナル

             新幹線高架沿い「郵便局」の前方

       ※南口出入り口に案内人が立っています

   

(注) なお、 会費については当日世話人大谷美奈子にお支払いください。


  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


塩楽荘下見レポート
 

台風一過、待ちに待った秋の涼風が少し吹き始めた9月9日木曜日、大谷美奈子、大谷さやか、大平庸夫の3人で今回の会場になる「塩楽荘」の下見見学に行ってまいりました。

 送迎バスは9時40分に姫路駅南口を発車して一路目的地へと向かいました。

28人乗りのマイクロバスにはまだ観光シーズン前で客は少なく、我々3人を含めて乗客は10人あまりでした。

バスは次第に姫路の中心部を離れ、途中から清流夢前川に沿ってを山すそを走っていき、30分あまりで「塩楽荘」に到着しました。

 玄関を入ると、そこには広々とした日本庭園が目の前いっぱいに広がるゆったりとしたロビーがありました。

 その日本庭園こそが、この旅館最大の売り物の、散策するだけで1時間以上もかかるという広大な日本庭園なのです。

 我々は旅館の担当者に案内されてまず客室を下見しました。予約されているのは3階の302号室から305号室までの4~5人用の和室4室で、いずれも庭園や森林に面したベランダつきの静かな佇まいの部屋でした。

なお、人数次第でもう1室追加され、5室になるかもしれません。

次に見たのは2階の浴場、特に今回は高齢の主賓に考慮して介護浴場を予約してありますが、それをまず先に見て、次に露天風呂つき大浴場を下見しました。

介護浴場には一度に4~5人は入れると思いますが、貸切ですから、ここで家族が主賓を介護しながら湯につかってゆっくり団欒できるのではと思います。

次は宴会場の下見です。

最初は1階にあるメイン宴会場を見せてもらいましたが、

そこは3室に仕切られており、当日は隣接するの2室を他の客が同時間に使用する予定ということで、主賓が高齢の「白寿のお祝い」という今回の会の性格上、我々一同は隣でドンちゃん騒ぎを繰り広げられたらまずいと感じ、その旨を担当者に告げると、すぐ当方の思いを察してくれて、中2階にある別の宴会場に案内してくれました。

ここは56畳という広い部屋ではありましたが、料金も同じということで、一室だけ独立しているため、騒音の心配はまったく無く、我々は喜んですぐその部屋を予約してもらいました。

これで他の客に気兼ねなしに、ゆったりとくつろげる宴会が開催できること間違いなしです。

 下見が終り、女性二人は「せっかくだから」と風呂に入り、残った私はロビーで目の前に広がる庭園を肴に生ビールでも飲みながら待つことにしました。

その後簡単な昼食をして、2時過ぎに帰りの送迎バスに乗り、途中「ヤマサ蒲鉾」の工場見学と、試食コーナー、お土産売場により、午後3時ごろ姫路駅に着き解散しました。

なにはともあれ、参加した3人ともが満足した下見見物でありました。

皆様におかれましては、どうか当日をおたのしみに!


  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「白寿とは」

白寿とは、99歳の長寿を祝う儀式をいいます。「白寿」と言われる理由は、99歳という年齢が100歳まであと1年で、「百(歳)」から「一」を引くと「白」の字になることから、99歳のお祝いを「白寿」というようになりました。白寿の祝い方も、基本的には還暦祝いと同じですが、贈り物などの色は赤ではなく、白を基調とした物を贈るのが一般的です。たとえば、白寿大頭巾、白寿祝着(ちゃんちゃんこ)、白寿祝扇など「白」一色で統一した贈り物で祝福します。

(インターネットサイト「お祝いマナー知恵宝庫」より)



    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



祝宴プログラム(予定)18:00~20:00
      中2階 蘭の間


① 開会の挨拶(担当、大平庸夫)5分以内

② 主賓への記念品贈呈(担当、大谷美奈子)2~3分

③ 宴会

④ 福引きつきゲーム大会(担当、大谷さやか)

    面白いゲームアイデア募集中!



(注) 案内状に書きましたカラオケや釣り大会は今回は団欒に重きをおくということで、時間の都合上、中止になりました。グラウンドゴルフなどはご希望者内で行ってください。



翌日について

① 朝食 7:30~8:30(宴会場)

② 解散 9:30(後は各自ご自由に、午後14:30発の

送迎バスもあります     

③ 送迎バス発車(9:45)

  途中「ヤマサ蒲鉾」工場見学へ

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


大平雪野写真アルバム(クリックすると大きくなります)



















大平雪野自筆随想集(抜粋)クリックすると大きくなります





























                
                    
                    では皆様、当日をおたのしみに !!



    大平雪野著、随想集「つれづれの記」 2011年春出版予定








・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2010年9月6日月曜日

なぜ 新潮新書 「人は見た目が9割」 という本が売上110万部突破というミリオンセラーになったのか?

世の中にはおかしなと言うか、馬鹿げたと言うか、そういった解せない現象が起こることがままある。

驚ろいたのは、9月初旬の本屋の店頭で、一冊の新書版の帯に記された「ついに110万部突破」というキャッチコピーを見たときである。

その本の著者は「竹内一郎」という方で、タイトルが「人は見た目が9割」というもので、私がもう2年以上も前に図書館で借りて読んだ本である。

私はこの3年間、読んだ本はすべて読書記録につけているので読んだ時期について間違って記したりすることは無い。

念のため確認してみたところ、読書記録には読了日が2008年7月29日となっていた。

では、何故私が今回のブログのタイトルにするほど、この本がミリオンセラーになったことについて驚いたのかと言えば、この本に対する私の評価が極めて悪かったからなのである。

私の読書記録は「書名」「著者名」「出版社名」「価格」「発行日」「入手媒体」「読了日」「評価及コメント」の8項目からなっているが、最後の「評価及コメント」の項目でこの本は、評価の最も悪い「C」がつけられ、しかもコメントにはこう書いてある。

「そもそもタイトルに惹かれて読み始めたのだが、最初の方こそまずまずだが、次第に内容はテーマから離れていき、中ほどからはほとんど関係の無いような事柄を無理やりこじつけて、いたずらにページ数を稼いでいる。書き手の力量不足を痛切に感じる1冊である」

評価は「特A、A、B、C」の4段階の最下位、それにコメントにしても実に厳しいものであったのだ。

はっきり言って評価が「C」で、これほどコメントの厳しい作品は滅多にないなのである。

ちなみにこの前後に読んだ清水義範著「大人がいない」が評価「A」、正高信男著「ヒトはなぜヒトをいじめるのか」もまた評価「A」となっている。

私としてはこの本の評価に決して予断はなく、公正な判断を下したつもりである。

その本がである。

売上110万部突破!という驚くべきキャッチコピーを記した帯をつけて私の目の前に突然現れたのである。

この驚きは単に本の売上という一次元に於いてだけのことではなく、私のあらゆる経験上においても特筆すべきほどのことなのである。

いったいなぜなのか、内容の極めて乏しいこの本ごときがミリオンセラーになるのなら、世のほとんどの本がそうなっても不思議ではない。

これについて、私なりに気持を整理させる為にその理由に関して、以下結論めいたことを述べておく。

まず第一は出版社が「売るため」につけたタイトルが抜群に良かった。

このタイトルは普段新書などあまり読まない人々に対しても強い訴求力を持っている。

つまり、多くの人々がこれまでなんとなく「そうではないか」と思っていた関心事について、ズバリ「そうだ」と断言している。

その点が強力に受けたのである。

第二は新書版で680円という価格が安くてお手ごろだった。

これがA5版などの普通のサイズの本だったら、結果は違っていたのではないだろうか。

第三は案外多くいる「自分の容姿にちょっぴり自信を持っているヒト」の優越感を刺激したからではないだろうか。

つまりそういった人たちが自分の普段からの思いを確認するためににこの本を買って読んだ。

こういったようなことが原因となって、今回の異常な現象を生んだのではなかろうか。

つまり、ミリオンセラーは著者や作品の内容に関係なく、編集者や出版社によって意図的に作られるものなのである。

2010年9月4日土曜日

夏の暑さをさらに増幅させる人たち





気象観測史上新記録の、まったくとどまることのない今年の猛暑だが、もう太陽の日差しはまっぴらで、人々は少しでも涼感をそそるものを目にしたいという気分になっている。

例えば電車内での真っ白なワンピース姿の女学生。

カップに山と盛られた白いかき氷。

さらには青い海に真っ白な帆を張って浮かぶ小さなヨットだとか、あるいは冷蔵庫で冷やされて白くなったジョッキに注がれたアワいっぱいの生ビールなどなど。

ところがそういった人の思いを知ってか知らずか、世の中にはまったく無神経でKYな人々がいるのもまた事実である。

つい2~3日前にも目にしたが、コーヒーショップでホットコーヒーを飲みながら、センスでやたらと扇ぎまくる中年の女性がいたが、その光景を見るだけで、熱さが一気に2~3度上がるような気がした。

夏でもホットコーヒーを飲む人を目にすることはそう珍しくはない。でも、さも熱そうにセンスをばたつかせながら飲む姿はなんとしてもいただけないのである。

次は男性だが、白いスーツ姿ならいざ知らず、いわゆるビジネスマンが好むダークスーツ。 

これにネクタイ姿で炎天下を行く男性の姿もいただけないものだ。

いったい取引先のどんな人がそんな暑苦しい姿で訪問されることを望んでいるというのであろうか。

今時、オフィス内でもCO2削減のため温度を高めに設定している所が多いはず、そんな中で訪問者のダークスーツ姿など望むわけが無いのである。

やはりこんな暑い夏こそ、白いカッターシャツ姿が一番なのである。

そんなことも指導できない、彼らの上司の顔を見てみたいものだ。

次は学生さん。

これは夏の風物詩とも言える甲子園の高校野球選手権でのことだが、応援団のリーダーの中に時おり黒い詰襟の学生服姿で大声を張り上げて一生懸命応援をリードしている男子学生の姿を目にすることがある。

これを見ると一応熱心さは買うが、気持ち的にヒートアイランド現象がさらにアップすること間違いなし。

最後はまた女性に戻る。

この夏にも日中の駅のホームでよく目にしたのだが、

帯をきっちりとしめた和服姿の中年女性たちの姿である。

たとえ夏物であっても、和服は首から足の先まで隙間というものがほとんど無く、露出部分が少ないため、暑苦しさを感じさせる点においては、他のどの衣服より大きいものがある。

神戸駅のホームでよく目にするそうした女性は、いったいナニモノなのであろうか、多分呉服屋さんのセールスレディか何かであるのだろうが。

歴史的な長さで猛暑日が続いた今夏、こんな暑苦しい姿の人たちには、残らずレッドカードを突きつけたい。

2010年9月3日金曜日

クラシック珠玉の名曲をあなたに(その4)

ピアノ曲集(4)

シューベルト 「セレナーデ」

シューベルト歌曲の中で最も有名なものの一つ。恋人に対する切々たる思いを、原曲ではマンドリンを模した伴奏の上に歌いあげている。
 歌曲集『白鳥の歌』は、3人の詩人(レルシュタープ、ハイネ、ザイドル)による詩集から採られた14曲から成り、『セレナード(セレナーデ)』はレルシュタープの詩による7曲の歌曲の一つ。
 なお、歌曲集『白鳥の歌』はシューベルトの死後に出版社や友人たちがまとめたものであり、歌曲集としての連続性はない

                                       インターネットサイト「シューベルト」より

[link]
http://classic-midi.com/midi_player/classic/cla_Schubert_serenade.htm

   インターネットサイト Rein Music「クラシックMIDI」より

2010年9月2日木曜日

依然と続くJR西日本の電車の遅れ多発に憤慨!!




先月最初のブログにも書いたが、8月に入っても依然として電車の遅延状況は一向に改善されることなく、逆に悪くなっているとさえ思われる。

私自身が8月中に通勤途上経験したものだけでも、人身事故の現場検証などの事後処理と称して一時間半にわたる車内閉じ込め、同じく人身事故で運転休止の為の山陽電車へのふりかえ輸送、さらに10分前後の遅延6回と、8月下旬までに、すでに8回も遅延被害にあっている。

前のブログでも触れた、解せない遅延理由についてだが、

さらに今月、なんとしても妙に思える遅延理由がひとつあった。

それは8月26日3時過ぎの下り新快速尼崎駅手前でのことであった。

大阪を出て淀川を渡る頃までは順調に走っていた電車だが、塚本駅をすぎた所まで来たとき、急に速度が落ちたかとおもうと、そのまま停車してしまった。

間もなく車内アナウンスがあり、理由は「尼崎、立花間の線路上に工具が落ちていて、その処理のために前の電車が止まったため」ということであった。

でもその工具がどんなものかの説明は無かったし、なぜそれぐらいのことで10分も止まったのかも分からなかった。

でも、この電車より前の電車はそれに気づかなかったのだろうか、そうだとすると、それほど大きなものではなく、電車の運行に支障をきたすほどのものではなかったのではないか。

JR電車の遅延にはこれまで相当悩まされてきた当方だけに、いろいろ疑問が湧いてきた。

なにしろこれまでに、遅延の理由として随分と当方の頭をひねらすようなことをたくさん聞かされてきているだけに、今回のことについても大いに疑問をもった訳なのである。

前回も書いたが、宝塚線大事故以来、過度に神経質になっているJR運転関係者は、なにかにつけて速度を落としたり、停車する理由にするため、こじつけのためのネタを探しているのではないのだろうか。

そのために、宝塚線の大事故以前だとまったく気にしていなかったような些細なことにもすぐ反応してしまい、それが減速とか停車の原因になっているのに違いない。

今回の「線路上に工具が落ちていたから」という理由も、その種の過剰反応なのではなかったのか。

こんな釈然としない理由でのJR電車の遅れは、いったいこの先いつまで続くのであろうか?

2010年9月1日水曜日

世界遺産「姫路城」と天を突く大型クレーン



わが町の誇り世界遺産「姫路城」もいよいよ今年度から「平成の大修理」に入ってしまい、その優美な姿とも当分の間お別れになる。

そのせいもあって4月の観光シーズン中は、大変な盛況で、休日の日などは大手門から園内に入るだけでも2~3時間待ちは珍しくないほどのまさに空前の人出に見舞われたのである。

その姫路城も今では全体がすっぽりと工事用のやぐらに囲まれてしまい、目にするのは上層部の一部分だけと、それよりうんと背の高い工事用大型クレーンの姿だけである。

でもこの大型クレーンと姫路城という新旧の組み合わせも見方によってはまた趣のあるものである。

それは近代的なビルやマンションなどとクレーンとの当たり前の組み合わせとは違って、数百年の歴史を持つ日本の代表的な建築物であるお城と現代の高層ビル建築にかかせない大型建設機械であるクレーンとの二者間に、稀有と言ってもいいような、組み合わせの妙があるからなのではないだろうか。

つい先日などは、青空に冴える堂々としたその組み合わせの姿を目の当たりにして、「うーん、この光景もまた乙なものだ!」と、思わず感嘆の声をあげてしまった。

でもこうしたことはいつもまじかに姫路城を見ている者だけに言えることで、はるばる世界遺産姫路城を見物する為に訪れてきた人たちには通用することではない。

彼らにとっては、なんと言っても白鷺城とも呼ばれるその優美な姫路城の姿を目にすることこそ価値があるのであって、工事中の風景を目にすることなど何の意味も無いのではあるまいか。

いま、お城のすぐ東側の公園に土と砂で作った姫路城の模型が飾られている。

模型とはいえ、中々精巧な作りで、土と砂で作られたとは思えないほどその出来栄えも立派で実に見事な作品である。

姫路城が修理中であると知らずに訪れた観光客の方々にはぜひこの土と砂で作った姫路城の模型でも見ていただき、一縷の慰めにしていただきたいものだ。

なにはともあれ、できるだけ速く修理を終え、また再び、「世界遺産姫路城」のその優美な姿を人々の前に現してほしいものだ。