2010年10月29日金曜日

「有害商品」を売って利益800億円・「JT」中間決算の驚き

10月29日の「JT」の中間決算に関する新聞報道によれば、今期の売上高は前年比8%増で3兆2987億円、利益は24%増の800億円であったそうだ。

たとえ値上げ前の駆け込み需要があったとは言え、タバコの有害性が大きく叫ばれている中でのこの好調な業績は驚きである。

思うに駆け込み需要に走った多くの喫煙者は、何パックもまとめ買いするほどいまだにタバコに強い愛着を抱いているのだから、例えストックがなくなったとしても、また値上げされたタバコを買って喫煙を続けるに違いない。

今回の僅か100円の値上げでは、禁煙の為の強い動機づけにはならないと思われるからだ。

したがって次の決算での業績も昨年度に比べ少しのマイナスはあったとしてもそれほど大きく落ち込むことはないだろう。

値上げ価格については、禁煙を促進する為に一時は欧米並みの高い価格を設定すべきだと主張した関係者もいたのだが、結局2兆円以上の税収の魅力には勝てず、売上減少を少なくする為に最小金額の引き上げに落ち着いたのである。

このことはあらためて世界に於ける日本の後進性をはっきり示した一つの例である。

ではいま世界のタバコ価格がどうなのかを見てみよう。

          タバコ価格国際比較

 国名    銘柄         価格
イギリス  ベンソン&ヘッジス  1186円
アメリカ  マールボロ           830円
フランス  ゴロワーズ           773円
ドイツ   ハーベー (HB)      644円

このたびの日本の価格値上げで人気銘柄「マイルドセブン」が410円になってはいるが、欧米と比べるとまだこれだけ大きな開きがあるのである。

さて、本日のブログの終りに、米国タバコ産業の覇者レイノルズ社の幹部が語った言葉を載せておこう。

「タバコだって、あんなものは吸わない。我々はただ売るだけだ。若者や貧しい人、ブラック、そして馬鹿な奴らに買わせるのだ」

(ディビット・ゴーリッツが面談した、レイノルズ社幹部の談話より)
米国タバコ戦略「アクリコ日記」より

2010年10月28日木曜日

「時代」だけでなく「知性」と「品」を感じるgoogle AdSenseの広告

googleと言えば「それは知の象徴である」

これは私が個人的につけたgoogleのキャッチフレーズである

でも使い始めのころは「知識の宝庫である」というふうに考えていたのだが、グーグルスコラ、グーグルアースそれにグーグルブックスなどに出会って以来途中から考えを変えて、以来私はずっとこう呼び続けている。

いったい私は日常生活でどれだけgoogleにお世話になっているだろうか。

思いついたまま使用頻度の多い順にその機能を列挙してみた

・情報検索
・ブログ掲載(google blogger)
・ニュース記事検索
・世界中のニュース動画配信
・音楽動画配信(YouTube)
・様々な辞書機能(ウィキペディアを含む)
・電子書籍(google booksを含む)
・情報の即時転送(google mail)
・居ながらにしてできる世界中の文献探し(スコラ)
・グーグルアースによる世界の地理立体映像

この他にも数多くあるのだが、とりあえず最近よく使う10項目を並べてみた。

ここではその機能のすばらしさについて一つづつ述べることはしないが、例えば「検索機能」一つとってみても、それは大きな図書館を二つ三つ持つことより、情報収集のための利便性は優れているのである。

また「YouTube」の音楽配信を使えば、ありとあらゆる種類のコンサートホールを自分の家に持っているのと同じほど価値のあることなのである。

さて、ここからは話の方向を変えて本日のブログテーマである「google adsense」について述べることにする。

広告といえばそれは「時代を表す象徴的なものである」とも言えるのだが、そういった意味で
「google AdSense」はさしずめその究極とも言える存在ではないだろうか。

今や世界のインターネット広告界をリードする確固たる存在であり、今でも日々進化を続けており、今日の広告業界には無くてはならない重要な媒体となっている。

今、インターネット広告の世界における「google adsense」を単なる広告と言ってしまってはもったいない。

広告は広告であるのに違いないが、私はこれをあえて「知の広告」と呼びたい。

それほど情報としての質の高い価値ある広告を日々提供し続けているのである。

それゆえだろうか、これに参加するためにはそれなりの厳しい審査があり、それをクリアーしなければ広告掲載はおぼつかない。

さいわい運よく審査に通り、私も参加させていただくことになったが、このことにより私のブログのステータスが一段と上がったように思っている。

きっとこれからの新しい読者獲得のために大きく貢献してくれるものと期待を募らせている。

2010年10月27日水曜日

「Rがつかない月」にまつわる欧米の迷信

巷間でよく言われる「Rがつかない月には牡蠣を食べない方がいい」というのは果たして真実なのだろうか、それとも単なる迷信なのだろうか?

本日のブログでははこれについて情報を調べながら検証してみたい。

今年もすでにRのつく月は始まっていて、9月のseptemberから4月のaprilまで連続して8ヶ月も続くのである。

この始まりとともにやってくるのが牡蠣の美味しくなるシーズンである。

巷での噂のように、なぜ牡蠣は「9月から4月まで以降のRがつかない月」は食べないほうがいいと言われるのだろうか?

それも欧米だけでなく日本でさえも「花見を過ぎたら牡蠣を食うな」ということわざがあるのだそうだ。

では1年の三分の一に当たる五月から八月までの四ヶ月の長きに渡り何ゆえ牡蠣を食べない方がいいと言われるのだろうか。

それにはいろいろな説があるようだ。

一説には、産卵のために生殖器が発達して身が細り美味しくなくなるからだと言われている

水温が上がり雌雄同体であった牡蠣が周囲の環境に合わせて雄と雌に分かれて生殖の準備をするのがこの時期なのだそうなのだ。

生殖器の発達に合わせて毒が出来ると思われているが、実際はは毒などないのである。

ただし、生殖器が発達することで牡蠣の身が細り、水っぽくなってしまうため、美味しくないから食べない方がいいという意味なのである。

しかし最近では輸送技術も発達し、世界の裏側からでも牡蠣がやってくる。

養殖技術も発達し、それに日本では岩牡蠣という夏の贈物もある。

なので、決してこの限りではなく、「Rのつく月には牡蠣は食べるな」とは言えないのである

重ねて言うが「この時期には毒を持ってしまうから」と言われるのは、大きな間違いなのである。

先ほども述べたが、この時期に水温が上がり、雌雄同体であった牡蠣が周囲の環境に合わせて雄と雌に分かれて生殖(産卵)の準備をはじめる。

すると、子供に栄養を送るために牡蠣の身が細り水っぽくなってしまうため、美味しくなくなるのである。

つまり、「美味しくなくなるから食べるな」という意味なのである。

ところがいつのまにか、生殖器の発達に合わせて毒が出来る・・・という間違った情報が流布してしまった。

でも実際には毒などまったく無いのだからどうかご安心を。

インターネット記事
(なぜ牡蠣は「Rのつかない月には食べない方がいい」と言われるのか) 参照

2010年10月26日火曜日

1970、NewYork City 「西97丁目」の思い出(Ⅱ)・下宿屋の女主人、エセル



(ニューヨークのアパート)
それにしても今夜のエセルは静かだ。

このアパートへ来てしばらくの間は彼女が喘息持ちだとは知らなかった。

ましてや深夜に激しく咳き込んで下宿人を悩ますなどとは思ってもみなかった。

もしそうだと知っていたのなら、月百五十ドルの下宿代をもっと値切っていたはずだし、さもなくば部屋の防音をもっとよくチェックしたはずだ。

エセルの寝室は壁ひとつ隔てたすぐ隣にある。

壁はそこそこの厚みがあり声や物音が筒抜けになるという訳でもないが、リビングルームに面して隣り合わせて並んだドアの隙間から迂回してくるものが意外と大きい。


辺りのただならぬ気配に目を覚まさせられたのは、越してきてから一週間経つか経たない日の深夜であった

目を覚ます前、夢の中で人が咳き込んでいるのを長い間聞いていて、そしてその音がドアの方へ移動して一段と大きくなったところで目を開けて起き上がった。

リビングルームの方からエセルが激しく咳き込んでいるのが聞こえた。

断続的な咳の間には、苦しそうな呻き声も入っていた。

これはほっておけない。

そう思ってベッドを抜け出してリビングの方へ歩いていった。

中へ入るとソファに座って激しく咳き込んでいたエセルがチラッとふり向いたが、またすぐうつむいてゴホンゴホンと咳き込んだ。

「どうしたのエセル、だいじょうぶ?」

そう聞きながら、とりあえずこの場合は背中でもさすってあげるしか方法はないと思った。

女性とはいえ、だらりと肉がたるみ、ぶよぶよとした老女の背中をさするのは決して心地よいものではなかった。

アメリカへ着いて早々、しかもこんな深夜に、いったいなんたることだ。

眠くてたまらない眼をこすりながら私は胸の中でそうつぶやいた。

でも仕方ない。この家には家主であるエセルと私のほかには誰も住んでいないのだから。

しばらくの間背中をさすり、それからキッチンへ行ってグラスに水を汲んできて、それを飲ませたりしていると、激しかった咳も次第に治まってきた。

少し楽になったのか、ゆっくり私の方を見たエセルは、ややすまなそうな表情で「サンキュー」とだけ言うと、飲みかけのグラスを持ってまたベッドの方へ戻っていった。

時計はかれこれ午前三時をさしていた。

その夜以来、この日までの四週間にエセルの咳が安眠を妨げたことは何度もあった。

妨げないまでも、ゼーゼーという音は深夜を問わず四六時中続いていて、耳障りなことこの上なかった。

正直言って大変な所を下宿屋として選んだものだと後悔した。

そして、できることならどこか他へかわりたいものだと、次第に切実の思うようになっていた。

それにしても今夜のエセルは静かだ。

この分だと、どうやら朝まで咳の発作は起こりそうもない。

ひと月も一緒にいると、なんというか気配でそれがわかる。

そう考えながら次第にまどろみの中へ入っていき、やがて深い眠りへと落ちていった。

                                          to be continued

2010年10月25日月曜日

1970、NewYork city西97丁目の思い出(Ⅰ)・煤けた灰色の街

ニューヨーク市、ウエストエンド97丁目はマンハッタンでも比較的アップタウンにあたるウエストサイドの一画にある。

この地域も今から約半世紀ほど前の1930年位までは、マンハッタンの住宅地の中でも比較的高級地に属していて、住む人々も、上流階級とまではいかないが、その少し下に位置するぐらいの、まずまずのレベルの人が多かった。

しかし、年がたって建物が老朽化するに従い、どこからともなく押しかけてくるペルトルコ人が大挙して移り住むようになり、それにつれて前からの古い住人はまるで追われるかのように、次第にイーストサイドの高級地へ引っ越していった。

そして40年たった今では、もはや上品で優雅であった昔日のおもかげはほとんどなく、そのたたずまいは煤けたレンガ造りの建物が並ぶ灰色の街というイメージで、スラムとまではいかないが、喧騒と汚濁に満ちた、やたらと犯罪の多い下層階級の町と化してしまったのだ。

住人の多くをスペイン語を話すペルトリコ人が占めているということで、今ではこの地域にはスパニッシュハーレムという新しい呼称さえついている。

今年71歳になり、頭髪もほとんど白くなった家主のエセルは、口の端にいっぱい唾をためながら、いかにむ昔を懐かしむというふうに、こう話してくれた。

ここまで聞けばどうしてドアに鍵が多いのか私にもわかった。

つまりこの辺りは、犯罪多発地域で、泥棒とか強盗は日常茶飯事であり、ダブルロックはそれから逃れるための住人の自衛手段なのだ。

そう言えば、つい三日前にも、ここから数ブロック先の103丁目のアパートで、白人の老女が三人組の黒人に襲われて、ナイフで腕を突き刺されたうえ、金品を盗まれたのだと、昨日の朝、いきつけのチャーリーのカフェで聞いたばかりだ。

そんなことを思い出しながら、ドアを開け、薄暗い通路を進み、正面右手の自分の部屋へと向かった。

すぐ右手のエセルの部屋のドアからは明かりはもれていない。

どうやら今夜はもう眠ったらしい。

今はマンハッタンのミッドナイト、昼間の喧騒が嘘みたいに、辺りは静寂に包まれている。

部屋の隅にあるスチームストーブのシュルシュルという音だけが、やけに耳についた。

                                                                                                        to be continued

ブログ検索は e.ebisiの人気ブログ blogurl:http://tuneoo.blogspot.com/ でどうぞ

2010年10月24日日曜日

クラッシック珠玉の名曲をあなたに(その6)

ピアノ曲集(6)
ビゼー・アルルの女より「メヌエット」


メヌエットとは
メヌエット(英: minuet、独: Menuett、仏: menuet、伊:
minuetto)は、ヨーロッパの舞曲のひとつ。4分の3拍子で、各小節の1拍目にアクセントが置かれる。比較的ゆったりとしたリズムで優雅に踊られる宮廷舞踊である。フランスの民俗舞踊に由来する。
                  ウィキペディアより

インターネットサイト ReinMusic「クラシックMIDI」より

E.Ebisi(Tuneo Ohhira)のブログ執筆、掲載心得10ヶ条



一つ    新鮮で魅力あるテーマこそがこのブログの命であるということを肝に命じる

一つ    幅広い年代層に理解されることを心がける

一つ   偏らず、おもねることなく、常にバランス感覚を保った記事づくりに心がける

一つ  テーマ探しに翻弄されることなく、常に一定のストックを蓄えておき、余裕をもって執筆に
     当たる

一つ  書きにくいと感じたテーマは深追いせず、一時保留または中止にする

一つ  一テーマ最低1000字の記事ボリュームを守る

一つ  常に読者を意識して読んでもらうに足る価値ある記事にする

一つ  世界中の人が読むに足るグローバルな見地で記事を書く

一つ  一ヶ月に20テーマ以上の掲載を死守する

一つ  できるだけ幅広いジャンルのgoogle adsense広告が載るように、テーマは分野を広く
     取り込む

2010年10月23日土曜日

How is your sexlife?・性生活に力点をおかない日本人の生活スタイル



社会実録データ図録より
 
まず上のグラフを見てほしい。

これは日常生活において人々が何に重きをおいて日々の生活をおくっているかということについて、国際比較という形でグラフ化されたものである。

このグラフでなんと言っても注目したいのは「セックス」と「睡眠」という項目である。

何故かと言うと、この二つについては欧米人と日本人の間に「生活の力点」ということに関して大きな開きが出ているからである。

まずセックスであるが、欧米の国々が軒並みに30%以上も力点をおいているのに対して、日本を含むアジアの国々のこれに対する数値が非常に低いのである。

実際にその数値を比べてみても、日本の7%というのは最も高いイタリアのに5分の1にも満たないほど低いものなのである。

いったいこれは何を意味しているのであろうか。

単に食生活の違いなどに原因をなす、体質的な要素も含んだ性向の違いによるものなのだろうか。

それとも仕事や生活に疲れすぎていて体力的、精神的にそこまで気がまわらないのだろうか

後で触れる睡眠に対する力点の大きさからもこのことがうかがえるのであるのだが。

確か中学生の頃だったか、人間の三大本能は「食欲」「性欲」「睡眠欲」だと習った記憶があるが、そのひとつである性欲に欧米と日本にこれだけの差があっていいものだろうか。

これは大いに考えさせられる点である。

このブログを書く前にふと思い出したのだが、むかし若かりし頃、ニューヨークのホテルで職場研修生として働いていたとき、当時の私よりかなり若い同じフロントオフィスに勤務していた「スーザン」という名前の黒人女性からかけられた挨拶言葉にはすっかりドギマギさせられたものだ。

その言葉というのは今回のブログのタイトルにもなっている「How is your sexlife?」というものであったのだ。

日本では到底考えられないような、思いもよらないそんな挨拶言葉に、ドギマギした気持を持て余しながらも、かろうじて「It's no good。very poor sexlife」というふうに応えた記憶があるのだが。

とにかくそうした若い女性でも気安くそんなくだけた言葉を口にするぐらい、欧米人が「sexlife」ということに対していかにウエイトをおいているかということが、今にしてみればよくわかるのである。

次は「睡眠」という項目であるが、これはセックスとは逆で日本人が20%と高いのに対して、欧米人は最も高いドイツ人が8%で後の国々はすべてそれ以下なのである。

しかしこれについては単に力点をおいてないだけで、それに費やす時間が少ないわけではないのである。

例えばある統計ではフランス人の平均睡眠時間は8時間半で世界一だといい、日本人の7時間強を大きく上回っているのである。

力点をおかないというのは、睡眠とは意識のない状態なので、活動している時間でなく、費やす時間は別にしてその行為自体に生活スタイルとしての力点をおかなくてもいいと彼らが考えているからに違いない。

とにかくこのグラフでは「性生活」に対するウエイトのおき方での欧米とアジアの大きな違いについて、大いに考えさせられてしまった。

2010年10月22日金曜日

体はFreeに、頭はBusyに

(脳は疲れない)
何かといえば「忙しい、忙しい」と口にする人がいるが、こういう人などはさしずめ本日のブログタイトルとは逆の、体がBusyで頭がFreeな状態にあるのではないだろうか。

よく言われるではないか。

忙しいという字は「忙」と書き、「心を亡くす」という意味である、というふうに。

心を亡くす、つまり頭がFree状態になっている訳で、ものを考えていないのだから決していい状態ではないのである。

逆に体はリラックス(free)しているが、頭は常にフル回転(busy)というのが、本日のタイトルなのである。

一般的に脳(海馬)というのはいくら使っても疲れないものであると言われている。

極端に言えば一生使い続けても疲れないのである。

もし、疲れたと感じることがあれば、それは脳そのものではなく、目などの神経が疲れ、それをかん違いして人は脳が疲れたと思うのだそうだ。

一方体はどうだろう、忙しく動けば当然エネルギーを使い、その結果消費したエネルギー分だけ疲れてくる。

もっとも体の疲れる原因についてはまだよく解明されていないようだが、一説には乳酸がたまるからだとも言われているようだ。

でも、頭を使いながら効率よく動けばその分だけエネルギー消費も減り、疲れも少なくなるのではないだろうか。

したがって動きまわるときでも頭でよく考え、なるべくリラックスした動きが必要になるのである。
つまりゆったりとした気持で頭だけは働かせながら行動していくのである。

これは今流の省エネを考えた行動様式でもあるのだ。

日本人にはとかく「よく動き回る忙しさ」ということを美徳と考える風潮があるようだが、でもそうした考えは以前のブログでも書いた、日本語の「がんばれよ」と英語の「Take it easy」の励まし言葉の違いにも似たような響きがあって、頭を使わず「忙しい、忙しい」とひたすら頑張って動き回ることは、ただ疲れるだけで精神衛生の見地から考えても決していいことではないと思えるのだが。

とにかく心を忘れるほどの忙しい状態にはなるべくもっていかないようにするのが望ましく、そのためにも脳だけは常にフル回転していたいものだ。

つまり「体はfreeに、脳はbusyに」の精神なのだ

2010年10月21日木曜日

未解決殺人事件が多すぎる・日本の警察は果たして大丈夫なのだろうか

一般に公表されている日本の殺人事件の犯人検挙率は95%とされている。

しかし日本人のいったい誰がこんな数字を信じるだろうか。

記憶に新しい最近の重要事件でさえ、むしろ解決していないものの方が多いくらいでなのではないだろうか。

例えば昨年の島根の女子大生殺人事件、08年愛知県豊田市女子高生殺害事件、さらには07年の京都での男子大学生殺害事件など、これら重大事件の何一つとして犯人は検挙されていないではないか。

最近の例だけでさえこうであるのに警察は何をもって検挙率を95%などというのであろうか。

一説には、実際は殺人なのに統計上は事故死、病死、自殺、失踪などで処理されているからだという。

もしこれが事実だとすれば殺人事件よりもっと恐ろしい話ではないか。

果たしていまの日本の警察は本当に信頼するに足るのであろうか。

07年には一応積極的に未解決事件に取り組んでいるというポーズをとる為か、犯人逮捕の協力者に特別報奨金(懸賞金)を出す制度を作ったりしている。

でも検挙率の低さで信頼を無くす以前に警察に関しての悪い噂は絶えることなく、そのほうがむしろ問題である。

例えば悪名高いギャンブルである「パチンコ」を一向に取り締まらないのはパチンコ業界へ多くの警察官僚が天下りしているからだとか、最近のネット犯罪、例えばワンクリック詐欺などの捜査に消極的なのは、ネットに詳しい捜査員が少なく知識的についていけないからだとか、とかく悪評が高いのである。

思い出してみても欲しい。

週刊文春の「疑惑の銃弾」という世紀の大スクープ記事以来日本中を騒然とさせたあの「三浦和義・ロス疑惑事件」だが、結局日本の警察は解決できず、あげくのはてはアメリカ警察に再逮捕され、罪の重さに耐え切れなくなった本人が自殺して結末を迎えたではないか。

この事件など、誰が考えても三浦和義が真犯人に違いないのに、日本警察は解決できなかったのである。

そして日本より一段と優れたアメリカの警察力によって、それが犯人自殺という不測の事態が起ったとはいえ、一応庶民が納得できるような形で解決されたではないか。

いま私たちは日本警察の力量とともに、その捜査の進め方についてもよく観察していく必要があるのではないだろうか。

国民が絶えずウオッチしていれば、少しはましになるのではないだろうか。

何しろ彼らは民間と違って裁量労働制で仕事を進めることのない公務員なのだから・・・・。

なお、未解決殺人事件については、毎日JPの「主な最近の未解決事件一覧」というネット記事に詳しく載っている。

2010年10月20日水曜日

WordのFunction・「コピペ」と「D and D」それに「delete」が好きだ


パソコンといえば何かとインターネットだけが囃したてられるきらいがあるが、一方で実務に欠かせない「書く」ためのソフトである「ワード」や「エキセル」の徹底して利便性を追及した機能のすばらしさについてもまた別の意味で賛辞を送りたいものである。

一般的に年長者で、一部の昔かたぎの人々の中には「パソコンの文書は冷たい感じがするので手書きの方がいい」と主張する人もいるが、今では決してそんなこともないのではあるまいか。

文章のところどころに「図の挿入」という機能を使って写真や絵などを配し、味があって見た目もいい文書にすることもできるし、その他「ペイント」という絵を描く機能を使って絵手紙を作ったりして、受け取り側を喜ばす方法はいくらでもあり、アイデア次第で「冷たい感じ」は簡単に取り払えるのである。

私個人としては、ブログ製作のために「ワード」をほとんど毎日のように使っている。

長年の慣れから、いまではキータッチ操作も軽やかで、タッチタイピングの腕もかなり上がってきた。

ウインドウズには文書製作の為のソフトは全部で四つある。

そのうち、ワードパッドとメモ帳というソフトは予め組み込まれていて、あとの二つの「ワード」と「エクセル」は後で有料ソフトとしてダウンロードする必要がある。

ごく普通の文書だと「ワードパッド」などでも製作可能なのだが、少し手の込んだ文書だとやはり「ワード」の方が何かと利便性に優れており、私はいつもこのワードを使っている。

ワードには文書製作を助ける様々な優れた機能が搭載されている。

恐らく数えれば100ははるかに超えていると思われるほどの様々な機能の中で、私が特に好きなのはタイトルにも掲げた三つの機能である、

まず一つ目は通称「コピぺ」という機能である。

この「コピペ」と呼ばれる名前、正しく言えば「Copy andPaste」のカタカナ用の略なのである。

つまりある文字や文章をコピーして他の場所へ貼り付ける作業のことを言うのである。

その作業たるや誠に簡単で、コピーする箇所をマウスでなぞって選択し、それからコントロールキーを押しながら「C」のキーを押さえるだけである。

次にコピーする場所にマウスのポインターを合わせ、そこで今度はコントロールキーとともに「V」の文字を押さえればいいのである。

これで短い文章であろうが長い文章であろうが簡単に好きな場所にコピーされてしまうのである。

二つ目は「DandD」である。

これはDRAW and DROPの略で、つまり言葉や文章を引っぱっていって別の場所へ移す(落とす)作業のことを言うのである。

これについてもやり方は簡単で、マウスの左クリックをを押さえながらなぞって言葉を選択し、それをマウスの左を押さえたままポインターをそれに合わせて写す場所まで引っ張っていき、そこでマウスから指を離すのである。

これは文字や文章の位置を変える際の大変便利な機能なのである。

最後は「delete」であるが、これは手書き文書で言えば言葉や文章を訂正する為に消しゴムを使って消す作業に当たるものである。

これもいたって簡単で、訂正箇所を選択して「Delete Key」を押すだけで、その箇所は一瞬にして消え去ってしまうのである。

なんだか今回のブログはワードの機能説明のようになってしまったが、文書製作プロセスでことさらよくお世話になるこの三つの機能が私は大好きなのである。

2010年10月19日火曜日

愛校心の強弱は偏差値の高低に準ずる

まず下の数値を見て欲しい。

校名   偏差値 登録同窓生
上位 A校   69   895名
    B校   65    612名
      C校    63   418名

下位 J校   49   186名
    K校   43   145名
    L校   40   14名
                                                       
この表は姫路市の一部の高等学校(普通科)の偏差値と、インターネットの同窓会サイトの登録会員の数を示したものである。

この数値を見れば一目瞭然のごとく、上位の学校も下位の学校も偏差値の数字に登録同窓生の数が規則正しく準じているではないか。

つまり、偏差値が高い学校ほど登録同窓生は多く、逆にそれが低い学校ほど登録同窓生の数も少ないというふうにである。

この登録同窓生というのは、もう随分以前からネットにある「この指とまれ」という人気同窓会サイトに登録された同窓生の会員数である。

この数値について別の言い方をすれば同窓会員が多いということはつまり愛校心が強いということであり、少なければ愛校心が弱いと言えるのではないだろうか。

それゆえに「偏差値ランキング」は即「愛校心ランキングだ」であると言ってもいいのではないだろうか。

世の中の一部の人たちは受験競争に明け暮れる進学校を人間性が育たないなどと、さも悪いものであるかのように言う人があるが、この数値を見たら決してそんなふうには言えないのではないだろうか。

むしろ受験に明け暮れない偏差値の低い学校の方が愛校心が欠如しており人間性も育っていないという数値を表しているのである。

何故こういう結果になるかは言わずと知れたことである。

それは偏差値の高い進学校にはバランス感覚に優れたレベルの高い教師や柔軟な考えができる賢い生徒が多く集まるからであり、いい先生やいい友達に囲まれ次第にいい方向へと感化されていくからなのである。

逆に偏差値の低い学校ではいい教師や友人に恵まれることが少なく、言わば「朱に交わって」しまうため、必然的に悪い方向に流されてしまうのである。

そして結果としていい思い出が作れないまま終わってしまうのである。

こういう見地から考えると進学する高校選びは学力だけでなく、人間性の形成にも大きく関係してくるのであり、決しておろそかにはできない重要な意味をもっているのではないだろうか。

それ故に高校選びこそ、人生における重要課題のひとつであるとも言えるのである。

2010年10月15日金曜日

書店の寡占化・ここまで進んでいいのだろうか?



今全国でいくつかの大型書店グループが激しい勢いで中小の書店を駆逐し続けている。

私の住む姫路市でもここ20年間くらいの間に、その影響は顕著に表れている。

ここ姫路市の代表的商店街である「みゆき通り商店街」は駅前という好立地と、このところの「世界遺産国宝姫路城」の人気の影響もあって平日でも人通りは多く、全国的に商店街が衰退傾向にある中で、まずまずの活況を見せている。

しかし驚くべきか、550メートルという長いこの商店街にいま一軒も本屋が無いのである。
50万人もの人口を抱える兵庫県で代表的な地方都市である姫路市の最も大きな商店街にである。

もし、事情を知らないよそから来た人がこの商店街で本屋を探し一軒も見つけることができなかったとき、果たしてその人はどう思うだろうか。

恐らく「考えられないことだ」とか「信じられない」というふうに思うに違いない。

地元に住む私ですら時々そう思うことがあるくらいなのだから・・・。

でもこれは現実なのである。

実はこの商店街にもかつて1980年代頃までは今とは違って7軒もの書店があったのだ。

その頃の私は暇を見ては本屋通いに精を出していたので、それら本屋の名前と場所は今でもよく覚えている。

まず姫路駅方面から商店街に入って50メートルほど行ったところに「新興書房」という3階まで売場のある中型書店があり、さらに30メートルほど進めば奥行きが長く文庫本の品揃えがいい「誠心堂の駅前支店」があった。

それから東西に伸びる大通りを渡って少し進んだところには今度は先ほどの支店の本店で、当時姫路の書店では最も敷地面積が広い「誠心堂書店本店」があった。

2階建ての広々とした店内は品揃えもよくかなりの活況を呈していた。

そして商店街の真ん中辺りまで進めば、そこには「三耕堂書店」という店もあった。

この書店は教科書も扱っており、ここで高校の英語教科書を購入したことが記憶に残っている。

さらにもう少し北に進んで商店街が切れる直前の国道2号線の近くには洋書で有名な、かの「丸善」の姫路支店があったのである。

この店ではあまり本は購入しなかったが、立ち読みだけはよくさせてもらった記憶がある

このように今も記憶にある五つの店だが、これ以外にも他にも店があったような気がして、念のためネットで調べてみると、当時のみゆき通りには本屋が全部で7店あったと記されていた。

残念ながらあと二つの店の名前は思い出せないが、とにかく1980年中ごろまでは商店街の規模にふさわしく7店もの本屋がれっきとして存在していたのである。

ところがである。

その1980年の中程を過ぎた頃からこれらの本屋は次々と姿を消していくのである。

まず大型書店進出前に最初になくなったのは三耕堂であった。

この書店は誠心堂駅前前支店をのぞく他の三店にくらべて規模が小さく、競争力という点では力不足は否めなく、最初に淘汰されたのは致し方ないことかもしれない。

それから訪れたのが駅前の女性ファッションの店が集中するフォーラスというビルへの「J」という大型書店の進出であった。

この書店、そのビルの広い六階のフロアーを全部占めるという当時では見たことも無いような巨大な書店であった。

広いフロアーの端から端まで背の高い幅広の書棚が何十と並ぶ風景は見ていて壮観でさえあり、その書棚には実に30万冊にも及ぶ膨大な数の本が陳列されていたのである。

その規模たるや売り場面積にしても、陳列書籍数にしても既存の店すべての合計より大きかったのである。

となれば当然需要より供給のほうが高くなって、既存の店は当然経営が圧迫されてくる。

そしてついには存続が難しくなり、廃業に向かうのはごく当然のことである。

こうして丸善姫路支店、誠心堂駅前支店、誠心堂本店、新興書房の順に次々と閉鎖されていったのである。

さらにこの「J」という大型書店はその後立地のいい場所に2度も店舗を移し、現在は今後急発展が予想されるJR姫路駅構内の女性ファッションアーケードの2階に巨大な店舗を構えているのである。

そのあおりを受けて今度は駅南側に進出していた「新興書房駅南支店」までが閉鎖に追い込まれる始末である。

でも、なぜ地元で長年がんばってきたこれらの老舗の書店が、急遽進出してきた大型書店に駆逐されてしまわなければいけないのであろうか。

いったいこうした大型書店の横暴と言ってもいい行為は許されるのであろうか。

こうした場合、例えば独占禁止法などの法律ははいったいどう機能を果たしているのであろうか。

長年慣れ親しんできた店を急に奪われた消費者には、そんな疑問もわいてくるのである。

再販制度によってその価格が守られ、原則として値引販売を禁止されている書籍だけに、大型書店の進出といえどもなんら価格面でのメリットなどは無い。

一カ所での豊富な品揃えもいいが、消費者にとってはそれぞれの特色を持つ中小の店が数ヶ所あったほうがいいような気もするのだが。

とにかく今全国で急展開されている書店の寡占化だが、その強引とも言える行き過ぎた展開に問題はないのだろうか。

監督する関係官庁にはよく考えて欲しい問題である。

2010年10月13日水曜日

「プラス思考」ばかり唱える人は胡散臭くないか?

不況になると何故だか「プラス思考」を唱える人が増えてくるようだが、それはいったいどうしてなのであろうか。

つまり、好況時だと企業などの経営はすべてがうまく運び、それまで通りの普通の考えで積極的に物事を推し進めていけば目的を達成することはそれほど困難なことではなかった。

しかし不況時になれば一般的に物は売れなくなり、企業の経営は当然厳しくなる。

したがってそうした状況下では、好況時のような普通の考え方に沿った行動では利益獲得の目的を達成することは難しくなる。

それゆえに好況時とは違った発想で行動を推し進めなければならなくなる。

その違った発想のひとつが「プラス思考」なのである。

つまり不況という「マイナス要素」をすっかり頭から消してしまう発想法なのである。

当然のことながら不況時には好況時のような当たり前の正攻法の論理では人を成功に導く為の説得ができないので、こうし思考法を用いなければならないのかもしれない。

しかし、問題解決のためにはまず正確な現状認識こそが大切で、これなしにいきなり「プラス思考」だけを押しつけるだけで、不況というマイナス要素を乗り切って成功へと導くことができるであろうか。

いや、それは絶対無理であろう。

例えどんな手段をとろうとも、その時の状況や条件によっては無理なものは無理なのである。

えてしてプラス思考の胡散臭いところは、こうした周りを取り巻く状況や条件などを一切無視して、ことに及ぼうとすることである。

こうしたやり方は信者獲得の為には手段を選ばぬ似非(えせ)宗教家やマルチ商法などの怪しい儲け話主宰者がしばしば用いているのと同じような手法ではないだろうか、

とにかく相手に余分なことを考えさせず、そのカリスマ的な力で、なんだかよく分からない内に一方的に主宰者側の考え方を押しつけてしまう。

こうしたやり方は人を煙に巻く一つの手段とも考えられ、それゆえに胡散臭さがつきまとうのである。

一方この発想の対極にあるマイナス思考は特に推奨すべきものであるとは言えないが、プラス思考に比べ、少なくとも外的条件だけはよく考慮してはいると言える。

したがってその点についてだけは評価してもいいのではないだろうか。

しかし外的条件をまったく無視した「プラス思考」は、考えようによっては一種の現実逃避であるとも言え、この発想法だけをもって物事を成功に導こうというのはいかにも短絡的で、また幼稚で無謀な手段ではないだろうか。

したがってプラス思考については前向きなその姿勢だけを評価して後は捨て去り、その後は合理的な現状分析に従った複眼的思考で計画に望み、その結果得た結論によって行動に移せばよいのではないのだろうか。

とにかく人々の弱みにつけ込んで吹き込んでくる「プラス思考」攻勢には十分ご注意を・・・。

2010年10月12日火曜日

NPO法人・ピンからキリまで


このところ目にしたり耳にしたりすることが何かと多い「NPO」と称する組織名だが、その名称のNPOとは「Non Profit Organization」の略で、一般的には「Non Profit」つまり「非営利」の組織のこと指して言うということは今ではよく知られてきている。

このNPOの名称は非営利の事業を通して社会貢献を目指す、いわゆる「社会事業」分野での志し高い組織集団に与えられるもので、言わば非営利事業としてのひとつの「ステータスシンボル」を表す名称であると言っても間違いではないだろう。

しかしそんな高邁な組織の目的を知ってか知らずか、設立希望者は後をたたず、このところ、その上昇率たるや大変なもので、ここ数年間の伸び率を取ってみてもその数値は驚異的である。

いまや全国でその数はなんと「4万」にまで達しており、明確な理由も無いまま不自然なオーバーヒートを続けた結果だとはいえ、この増殖状態は異常であり、また社会事業を推進するこの種の非営利組織が今の日本これほど必要だとも思えない。

いったい何がここまでこの組織設立を駆り立てているのであろうか。

はたして設立希望者は真にこの組織にふさわしい目的を掲げての参加を望んでいるのであろうか。

いや、その急激な増加傾向からみて私には決してそうとは思えない。

つまりその多くはいわゆる便乗組であって、真の目的とは関係なしの何か他の目的をもって単にこの「NPO」の名前の利用を企んでいるのではないだろうか。

それを証明するように、全国の「NPO法人名リスト」を眺めてみると、その目的が疑わしく、思わず首をひねりたくなってしまうような名称の組織を多く見つけることができるのである。

この法人を取仕切るのは国や県の官庁なのだが、どうも設立の為の審査が甘いのではあるまいか。

それを証明するデータがインターネットに出ているのでその数値を引用して紹介する。
・・・・・・・・・・・・・・・・
NPO申請受理数:41680件
認証数:40112件
不認証数:622件
・・・・・・・・・・・・・・・・
この数字が示すように不認証数が622件と申請数のわずか1.5%でしかないのである。

これを甘い審査と言わずして他になんと言えようか。

税金を使って補助金を出してまでその運営を助けているのであれば、申請があってもそれを安易に許可するので無く、設立目的などを厳正な目でチェックするなどして、もっと厳しい審査が必要なのではないだろうか。

また、いまも名前のある4万の組織の中には活動を停止している多くの休眠状態の組織が含まれているという。

したがって今後は、数にしても無尽蔵に増やすべきではなく、それには一定の制限を加えなければいけない。

ごく最近大阪でNPOを装った生活保護費詐欺事件があったが、こうした事件に利用されるほど、今ではNPOの名前自体が軽んじられ、安っぽくなってしまっているのである。

こうした状況を早く食い止めて、本来の目的にふさわしい組織の存在意義を取り戻す為にも、いま日本の「NPO法人」には大きな見直しが必要なのではあるまいか。

2010年10月11日月曜日

消す作業は進化した・いま「erase」から「delete」へ

パソコンと言えばなにかとインターネットの人気ばかりが先行しがちだが、作家をはじめ、こと書くことを本分とするいわゆるライターと呼ばれる職業に従事する人々にとって

インターネットと同じぐらい価値が高いものがマイクロソフトの「ワード」とか「エクセル」など書くためのソフトの存在ではないだろうか。

作家やライターには書き終えた原稿を推敲して手直しする作業が必要になってくる。

その手直しに必ず出てくるのが書き直しという作業である。

手書きのライターにとって、その書き直しのためには修正する箇所の消去が必要であり、そこで出てくるのが消去の為の消しゴムである。

この消しゴムを英語で言うと「eraser」となり、それを厳密に訳すと「こすって消すもの」という意味になる。

早くからタイプライターを使って文章を作る習慣のある欧米のライターと違って、ワープロが出現する前まで、日本のライターは書くことはすべて手書きに頼っていた。

そのため修正と言えば必ずこの消しゴムに出番がまわってきていたのである。

つまり修正箇所をこれでこすって消し、そこへまた新しい文字を書き入れるという作業が延々と行われていたのである。

ところがパソコンであればどうであろう。

修正箇所をマウスで選択し、次に「delete」のキーをクリックするとその箇所は一瞬にして消去されるのである。

つまり「erase」のようにこする作業などは伴わないのである。

これが「erase」と「delete」の一つ目の違いである。

次にゴム製の「eraser」で消すと、いかにうまく消しても完全に消去することはできず、多少なりともその消去跡が残る。

そのため上に書いた文字の美観は幾分損なわれるのが普通である。

その点パソコンだと完全に跡形無く消去できる為、その箇所に書き足した文字の美観を損なうということは少しも無く、はじめに書いたものとまったく同じ外観を保っているのである。

これが二つ目の違いである。

そして三つ目は、「eraser」を使えばこすった後に必ずゴムのかすが出てくる。

その点「delete」だと消した後、何かが出てくるなどと言うことはまったく無い。

以上の3点が「erase」と「delete」の違いなのだが、結果はすべて「delete」優位に傾いている。

いまだに手書きを続け、eraseの作業を継続している人もまだまだ多くいるとは思うが、「消す」という作業ににおいて、時代は大きくdelete優位に傾いてきているようである。

2010年10月10日日曜日

急激に減少した暴走族グループ・いったい彼らに何が起ったのか?

もう20年以上大通りに面したターミナル駅近くのマンションに住んでいるのでその動向がよく分かるのだが、気がついてみるとここ数年、暴走族がほとんど現れなくなっており、彼らのオートバイの爆音に悩まされることがまったくと言っていいほど無くなっているのである。

つい3〜4年ほど前までは、私のマンションのすぐ近くの駅前ロータリーを中心に、そこから南に延びる駅南大通り一帯はまさに暴走族のメッカと言ってもいいぐらいの土地柄だった。

季節を問わず週末の金曜、土曜ともなれば、決まったように彼らがけたたましい爆音とともに大挙して現れてきて、深夜遅くまで近隣住民の安眠を妨げていた。

その騒音たるや誠に凄まじいもので、普通の神経の持ち主が絶えうる限界をはるかに超えているほどの、まさに地響きを轟かせ、鋭く天を突くような、およそ形容しがたいほどの凄まじい音であったのだ。

したがって我慢しきれない住民は当然のごとくすぐさま110番通報をする。

すると間もなくけたたましいサイレンとともに数台のパトカーがやって来る。

それからがまた大変なのだ。

パトカーVS数十台の暴走族オートバイの凄まじいカーチェイスが展開されるのである。

私は悔しさを込めて眠たい目をこすりながらベランダからその様子をよく観察したものだが、逃げまわる暴走族の巧みな運転術は実に見事なもので、パトカーが追いついて暴走を静止させることは一向になかったようだ。

したがって見ている私などは、パトカーの運転技術に問題があるのではないか、とその当時よく思ったものだ。

そのカーチェイスは延々一時間ぐらいも続き、そのうち
まるでその「遊び」にあきたかのように暴走族が何処かへ姿を消していく。

4〜5年前までは、そうしたけたたましい騒音を伴った光景がほぼ毎週続いていたのである。

それが突如として、このところまったくと言っていいほど姿を見せなくなったのだ。

それ自体は住民にとっては誠に喜ばしいことに違いないのだが、十年以上に及ぶ長い間の関わりの割には、それほど時を経ない間にあっさりと姿を消してしまったそのあまりにも大きな変化に、時としては一抹の惜別の念さえ感じることもあるのである。

暴力団予備軍とも呼ばれ、長い間市民の敵であった彼ら暴走族は、いったいどこへ行ってしまったのだろうか。

その動向についてネットなどで調べてみると、どうやら
ここ数年の間にその構成員とその予備軍の数は激減していて、グループとしても成り立たなくなり、集団の数そのものが最盛期の4分の1以下にまで減ってきたのだという。

その原因はいったい何なんであろうか。

それにはいろいろな説があるのだが、そのひとつは若者にとって昔は高嶺の花であったオートバイが今では比較的手軽に手に入るようになり、それ故に大衆的になったオートバイがもはや憧れの的でなくなったのであり、したがってそれに乗って街中を疾走すること自体をかっこいいと感じられず、それ故暴走族に魅力を感じなくなってしまったのである。

ましてや警察の取締りが一段と強化されている今、それを押してまで志願する若者がいなくなったということなどが有力な説である。

何はともあれ、日本の文明社会が一段階進化して、成長期から成熟期に移行する時代特有の、過激とも言えるひとつの社会現象が消滅しつつあることは誠に喜ばしいことである。

2010年10月9日土曜日

海外で大人気の日本の中古商用車・でも急激な円高で今は輸出が小康状態


(アフガニスタンの街を日本の社名をつけたまま走る中古マイクロバス)
車検制度が徹底しており、それ故に整備状態のいいに日本の中古車はいま世界中で人気を博している

あえて車検制度が徹底していると断ったのは世界のどの国にでもこの制度があるわけではないからなのである。

例えば車大国No.1のアメリカでさえ車検制度はないのである。

でも、それでアメリカの中古車の性能が悪いかといえばそうとも言えない。

それは車のオーナーの自主車検への意識が高いからである。

まあそれはそれでいいとして、とにかく今日本の中古車は海外で大人気なのである。

私自身中古車関連の仕事に従事しているので、こういったニュースはよく入ってくる。

一般に日本と比べて欧米を除く諸外国では車両数に占める中古車の割合は非常に高い。

例えばイランでは国内を走っている400万台の車両の内の実に40%が1980年以前の年式の車で、それらのほとんどが中古車だといわれている。

また日本の中古車が特に多いアフガニスタンでは、輸入した右ハンドル車を左ハンドル車に換える商売が大繁盛しているという。

ところで日本から海外に輸出されるトラックやバスなどの商用車であるが、原則的に車体に記されている会社名とかマークなどは完全に消去されて送られるのが普通なのだが、中にはその手順を踏まず社名やマークのついたまま輸出されるケースもある。

しかし現地でそれら社名やマークのついた車が敬遠されるかといえば、それがまったく逆でむしろ歓迎されるのである。

なぜかと言えば、その社名やマークをつけたまま車を走らせれば、見た人がすぐ高級車のイメージが高い日本の中古車だと認識し羨望の目で見るらしく、それが車所有者のプライドをくすぐるからなのだという。

それ故にあえてその名前を消そうとはしないのである。

日本からの海外旅行者が現地でそうした車をよく目撃するのはそうした事情からなのである。

しかし一時は破竹の勢いで海外へ輸出されていた日本の中古車だが、このところの急激な円高の進行で、以前と比べてかなり落ち込んできているようである。

いま世界の国々の中には、その経済状況から中古車しか購入できない事情を持つ国は多い。

でも円高により輸出が大幅に制限されている現在では、輸出国日本ばかりでなく、輸入国に
とっても中古車が入らなくなることは大きな痛手であるに違いない。

そうした国々の為にも今の行き過ぎた円高は早急に是正されるべきではないだろうか。

2010年10月6日水曜日

騒音に鈍感な人種なのだろうか?


 「文明に遠い人種ほど騒音には鈍感である」という説を何かの本で読んだことがあるが、どうも日本人はどちらかと言えばそちらの人種に属するのでは?と感じることが時々ある。

けたたましいアナウンスの音を響かせて街を走る右翼の外宣車。

選挙前のオクターブを上げた[お願いします]のセリフを連呼しながら走るおびただしい数の候補者の宣伝カー。

防音設備を施していないビルの解体工事現場の地面に轟くほどの破壊音。

はてまたJRターミナル駅のホームでしつこいほど繰り返されるの音量の大きいアナウンスなど、数えれてみればきりがないほどいろいろある。

本日はそれらの迷惑な騒音の中で、最近特に気になっているJR駅ホームのアナウンスについて日頃から感じていることを書いてみたい。

JRに関しては最近たび重なる列車の遅れについて、7月と8月の2度にわたってこのブログで苦言を呈しており、ここでまた別種の苦情を書くことになるのだが、でも今回のことも決して黙認している訳にはいかない問題なのである。

私が利用しているJRの発着地点である姫路駅と神戸駅はどちらも乗降客が多いターミナル駅である。

したがって他の駅に比べて当然のことながら乗客に対する案内のアナウンスは多い。

しかし、同じことをしつこいほど繰り返すホームのアナウンスにはまったく閉口している。

これは他の私鉄のターミナル駅などと比べるとその違いは歴然としている。

例えば私が時々利用する山陽電車姫路駅などでは同じターミナル駅なのに、こうしたことはこれまで一度も感じたことがない。

JRを通勤に利用する人はすでにお気づきだろうが、各ホームの中央辺りには大型の電光掲示板が天井から吊り下げられる形で設置されている。

この掲示板、実によくできていて、列車についてのあらゆる情報がコンパクトにまとめられている。

発車ホーム、両編成(数)、乗車位置マーク、発車時間、行先、遅れ時間など、これを見たらすべてのことがが一目瞭然というほど多くの情報が狭いスペースに上手にまとめられているのである。

さらにこれらは日本語でだけでなく、外国人のために英語でも表示されているのである。

つまり、発車時間は「departure time」、遅れは「delay」というふうにである。

したがってこれさえよく見れば、その他の案内の為のアナウンスなどまったく必要ないのである。

にもかかわらず、掲示板と同じ内容のことがしつこいほでホームのアナウンスで流されるのである。

やれ「電車の到着は何時です」とか「乗車位置は三角印何番から何番までです」とか、そしてもっともしつこく繰り返されるのが発車する際の「まもなくドアが閉まります」というアナウンスである。

まず一分ぐらい前に機械録音のアナウンスがあり、そして30秒ぐらい前にホームに佇んだ駅員の同じことのアナウンス、そして発車5秒前ぐらいには今度はこの列車の車掌による車内放送があるのである。

つまり「間もなくドアがしまります」という同じ内容の放送が1分間ぐらいの間に3度も繰り返されるのである。

これが同じターミナルの山陽電車姫路駅だとどうだろうか。

こちらの方はきわめて簡単で、ドアが締まる直前に「ドアが閉まります」と1回放送されるだけなのである。

いったいこの両者の違いはどうしたものなのであろうか。

JRだけでドアに挟まれる事故が多いということは聞いたこともない。

やはりこれも宝塚線の大事故以来、駅員が安全に対して過敏になっているゆえの行きすぎたアクションのひとつに違いない。

JRは車内放送でしきりと乗客に携帯電話の自粛を呼びかけている。

もちろん騒音による迷惑防止のためだろうが、では自分たちが不必要に続けているこの無駄とも言えるアナウンスの騒音はどうなんだろうか。

他の私鉄などと比較して、一度よく考えてみて欲しい。

とにかく私たち一人一人が注意して無駄な騒音を極力廃し、文明国と呼ばれる国に住むにふさわしい国民になりたいものである。

2010年10月5日火曜日

「がんばってね」と「Take it easy」・日本とアメリカ逆の発想

私たち日本人がよく使う励まし言葉に「がんばってね」とか「がんばれよ」などという言葉があります。

これを英語に直訳すると「Work hard!」とか「Study hard!」となります。

でも、アメリカ人は一般的にそうは言いません。

こういったケースでは日本語とはまるで逆の二ユアンのスのある「Take it easy」という表現がよく使われているようです。

「Take it easy.」を日本語に訳すると「らくにやれよ」というような意味です。

また人によってはこの後に「Don't work hard.」とつけ加える人もいます。

つまり、「しゃかりきに働かないで、まあ楽にやれよ」というふうな意味です。

同じケースで使われるのに、まるで反対の意味を持つ言葉が用いられるのは考えてみれば不思議なことです。

文化の違いよってこれだけの相違が出てくるのは不思議な反面、誠に興味ぶかいことであるとも言えるのでないでしょうか。

この他にも日本とアメリカで逆になっていることは他にも多くあります。

例えばアメリカの公衆トイレでよく目にしますが、日本だと前垂らしにセットされているトイレットペーパーが後垂らしになっていることがしばしばあります。

これでは使い勝手が悪いのでは?と我々日本人は思うのですが。

また、これはよく知られていることですが、日本では救急車は199番ですがアメリカは911番。

人を呼ぶ手招きは日本が手の平を上から下に振るのに対し、アメリカは下から上に振る。

そして極めつけは、あるアメリカ駐在の長かったある日本の銀行マンの書いた本で紹介されていた一つも面白いエピソードの紹介です。

ニューヨークのある小学校に日本からの転校生がやってきました。

クラスに配属された初めての日、クラスメートに紹介された後、担任の先生が日本人生徒にこう言いました。

「席に座ってリラックスしてマンガでも読んでいなさい」

これは面白いではないですか。

まるで今回のタイトルの「がんばってね」と「Take it easy」の違いとの同じような響きがあるではないですか。

こういうケースで日本の先生だと、さしずめ「静かにして授業を聞いていなさい」とぐらい言うのに違いありません。

さて、日米のこうした大きな差。

あなたならどちらに軍配をあげますか?

2010年10月4日月曜日

テーマ探しに精魂を込めて・愛されるブロガーになりたい

ほぼ三日に二回、「生涯現役!日記」というタイトルで、精一杯気持を込めて書いたブログをgoogle bloggerで発信しています。

このブログのスローガンである「幅広い年代層に理解されるようなバランス感覚を保った意見を発表し続けていきたい」ということをひたすら守り続け、日毎テーマ探しに努めています。

実のところこの「テーマ」こそが

私のブログの生命線で、

それゆえ新鮮で魅力的な題材探しこそがもっとも大切なのです。

それほど簡単には見つかりませんが、

でもそれが決まった時は、平均して約1300字のこのブログはもう8割がた完成したも同然です。

それほどテーマの占めるウエイトは大きいのです。

今年の6月23日のスタートですが、10月2日現在でシリーズものも含めて「67テーマ」を掲載し終えました。

この調子だと今年中に「100テーマ」をオーバーしそうです。

それをひとつの目標にして、今日もテーマ探しに努めます。

どうか皆様の暖かいご声援を!

http://tuneoo.blogspot.com/
E.Ebisi(tuneo ohhira)

2010年10月3日日曜日

新築ビルの解体・目前で展開される厳しい不況の現実

距離にして10メートルほどしか離れていない私の住むマンションのすぐ隣で、今珍しい光景が展開されている。

今から2年半ほど前に着工して去年の春にほぼ完成した姫路市内では五指に入るほどの敷地面積の広い14階建ての大きなビルの話である。

そのビルなのだが、完成直前になった去年の春、突然工事が中断され工事現場から人の姿が消え、その後1年以上も現場には人っ子ひとりとして現れず完全に放置されたままの状態になっていた。

そして一年少したった今年の五月頃になってやっと人影が現れ、それとともに再び数多くの大型重機類が運び込まれた。

それから始まったのは、なんと完成間近の新築ビルの解体作業なのであった。

姫路でも屈指のこの大型ビルだが、あと一歩で完成という直前での、まるで容赦のない残酷な解体作業が始まったのである。

いったいなぜなんだろう。

このビルは着工と同時にテナントの募集が開始されていたが、駅前の一等地である程度の入居者は確保できると予想されていたのたが、今の厳しい不況下ではそれもかなわなかったのであろうか。

聞くところによると、たとえ駅前の一等地とは言え、このところ周辺のビル入居率は芳しくなく、月を経るにしたがって次第に悪化していて、空室の数が多くなるばかりだという。

そうしたビル不況の波をかぶって、この新築ビルも入居者が集まらなかったのであろうか。

もちろん着工前にはそれなりに入念なリサーチも行われたのであろうが、それも役に立たず、まったくの見込み違いに終わってしまい、過去にもあまり例を見ないような完成前の解体という厳しい結末になってしまったのであろうか。

それにしても、この壮大な無駄はいったいどうしたものであろうか。

ビルの建築費の回収はまったくのゼロで、そればかりか新たに解体費用が上乗せされるのである。

このビルのオーナーにとっては、まさに泣くに泣けないような筆舌に尽くせないほどの大きな苦しみであろう。

でもそうした経営者の苦しみと悲しみをよそに、さも何事もなかったかのごとく、今日も重機の音を大きく響かせ、新築ビルの解体工事は続いている

2010年10月2日土曜日

大学の講義もインターネットで

いま新たに何かを学習したい人にとって、インターネットほど便利で都合のいいものはない。

言い換えれば今という時代はインターネットを使えば、居ながらにしてあらゆることが即座に学習できる環境にあるのである。

まさに学習者にとって夢のような時代が到来したと言っても決して過言ではない。

向学心があっても何らかの都合で上の学校へ進めなかった人は多い。

そういう人たちにとっては居ながらにして視聴覚をとおした学習にチャレンジできるようになったのだから、これほどの朗報はないだろう。

また未曾有の高齢化社会に入った現在の日本で、生涯教育の名のもとに高齢者が再び質の高い学習の場に参加できるまたとないチャンスなのである。

そのプログラムも学問の領域ばかりでなく、趣味などのあらゆる分野にまですそ野を広げており、その選択肢は多伎に及んでおり、内容についても実に豊富である。

例えば大学の講義にしても無料で受けられるものだけでも、慶応大学工学部の講義を取り上げた「ワイドユニバーシティ」とか、あるいは各大学の自慢の教授陣による講座である「大学教授のそのまな講義」というもの、さらには「インターネット大学講座」など、まさに目白押しの観がある。

さらに大学講座ではないがそれと同レベルの、国立情報学研究所によって無料で提供される教養講座の数々というふうに、ネット講座はいまや花盛りの観を呈していると言っても決して過言ではない。

これに有料の講義を加えると、その数はまさに無尽蔵と言ってもいいくらいである。

しかも今はまだ草創期で、その数は年々増加の傾向にあるのである。

しかし、いかにこうした恵まれた環境下にあっても、高齢者にありがちなパソコン音痴だと、いかに向学心に燃えていても参加することはできない。

したがって、高齢者をはじめそうした人はまず手始めにパソコン操作技術をマスターすることだ。

これに対しては何かとおっくうがる人が多いが、決して考えるほど難しいものではない。

何を言おう、今69歳のこの私だって「ウインドウズ95」が世に出た、50代半ばに初めてパソコン技術を習得したのだから。

何も生涯学習ということにばかり目を向けて言うのではないが、第二次産業革命とも言われる現在の「インターネット社会に於いてのみ得られるかけがえのない利益」を享受するためにも、パソコン操作技術だけはできるだけ早めに習得されることをおすすめしたい。

2010年10月1日金曜日

宇宙飛行士は「英雄」でいいのか?



テレビで「若田光一さん」だとか、「山崎直子さん」だとかのスペースシャトルに搭乗した宇宙飛行士についての報道があるたびに、決まって私の頭に浮かぶことがある。

そして、彼らが英雄視されればされるほど、私は次第にしらけた気分になっていく。

この宇宙飛行士はこのところずっと「子供が将来なりたいもの」のランキング上位に野球選手やサッカー選手らとともに名を連ねている。

野球の「イチロー」とか「松井」らとともに、まさに子供たちの憧れの的であり、大きな夢を与え続けているのである。

子供たちにとってはそんな英雄的存在である彼らに対して、私が複雑な思いを抱くのはいったいなぜなのであろうか。

ズバリ言えば、それは彼ら日本の宇宙飛行士にかかる桁外れな額の費用のことなのである。

はっきり言えば、彼らのニュースに触れるや否や、私の頭にはすぐネットの「財政赤字カウンター」が目に浮かぶのである。

そして「あーあ、これでまた今回の宇宙飛行に費やされる何十、いや何百億円かの数字がカウンターに追加されるのだろうなあ」などと思って、思わずため息が出るのである。

私が貧乏性なゆえに、こんなことばかり気になるのだろうか。

こんな気持ちになるのは果たして私だけなのだろうか。

でも最近私はこのことに関してネットで驚くべき内容の記事を見た。

それは人材派遣業界の会社「人材ビジネスフォーラム」の社長、東田康之氏の書いたブログであった。

タイトルズバリ「宇宙飛行士の費用」というもので、その中で氏は雑誌「will」から引用した元文芸春秋編集長、堤尭氏の発言を次のように載せている。

・・・・・ 堤 これは余談になるけど、日本人が宇宙に行くたびに大騒ぎしている。しかし、乗船代にいくらかかっていると思う?毛利さんの場合は270億円、若田光一さんは67億円を支払っている。毛利さんは化学者で、シャトルの中でもっぱら科学的実験とやらに従事する。メダカの研究だな。若田さんはフライト・エンジニアで、船外作業などもできる。その差が乗船料に出る。いずれにせよ、宇宙開発事業団の出費だ
・・・・・

これは驚きだ。スペースシャトルへの搭乗費用はある程度高額だとは予想していたが、これほどだとは思わなかった。

まるで、一桁ちがうんでは?という感じだ。

いかに科学技術研究振興の為だとは言え、巨額の財政赤字を抱える日本が、今これだけの出費を果たして宇宙飛行士のためにかけていいものだろうか。

それこそ、彼らに憧れる次世代の子供たちに大きなつけを残すだけではないか。

こうした点にまったく目を向けず、宇宙飛行士をいたずらに英雄視する方向にばかり煽り立てているのは、いったい誰(何)なんだろうか。

じっくり考えてみたい問題である。