2011年8月23日火曜日

見ると心がなごむ ・ 子供が本を読む光景

よく行く図書館で、時々子供が本を読む姿に接することがある。その光景を目にした時はなぜか心が和む。

でもふと考えてみる。子供が本を読む光景に接すると、なぜ心が和むのであろうか?と。

その理由を説明することはそれほど難しいことではなさそうだ。

つまり、私たちは日ごろから本を読むことが大切なことだと考えている。だが、それがわかっていても行動に移すとは限らない。

なぜならそれを実行することは簡単ではなく、ある程度の困難を伴うことだからである。

本好きを自認する私でさえ、気がついてみると数週間も、まともに本を読んでいないことさえある。

その理由の説明するのは簡単だ。"忙しくて読む時間がない" と言って、それを口実に、読書から逃げているのである。

私は常々思っている。「忙しくて本を読む時間がない」という人が多いが、ほとんどの場合、それは単なるごまかしの言い訳に過ぎないことだと。

正直に言えば"読む気がない"だけのことなのである。言い換えれば本を読む気持ちを持ったり、作ったりすることができないのである。

先ほども述べたが、本を読むことを実行するのはそれほど簡単なことではない。

その第一の理由は「集中力」を保たなければならないからである。

「集中力」には気力がいる。したがってエネルギーを必要とするのである。

人はできることなら "楽をしたい" と思っている。それゆえ仕事以外ではエネルギーを要する行動はできるだけ避けたいとも思っている。

だから読書という集中力というエネルギーを要する行動は避けたがるのである。

それゆえに、読書する人の姿に接すると一種の尊敬の念を抱くのである。

ましてやその対象が子供となるとなおさらである。子供は体を動かす遊びが大好きだ。でも読書は遊びではなく言わばそれの対極にある学習のようなものだ。

しかもそれは学校での学習のように義務を伴うものではない。したがって自主的に図書館にやってきて、自主的に本を読んでいるのである。

それゆえに、遊びたい盛りの子供がそれを犠牲にしてまで、精神の集中を要する読書にいそしんでいる姿に接して、大人がなにがしの感動を覚えないはずがない。

そして、その感動は 「あんな子供でも図書館で読書している。日本の将来もまんざら捨てたものではない」 などというような一種の安心感に変わり、それが心のやすらぎにつながるのではなかろうか。その気持ちが心を和ますのである。

"子供が読書する姿" は心に響くとてもいいものである。これからも度々そうした姿に接したい。

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