2014年8月31日日曜日

T.Ohhira エンターテイメントワールド(第41回) ・ 小説 「マンハッタン西97丁目」 第5章・7年ぶりの再会 (その6)



マンハッタン西97丁目 第5章 「7年ぶりの再会」 (その6) 

  世界広しといえども、ここニューヨークほどあらゆる国の料理がそろっているところは他にないだろう。ここはまさにエスニック料理のメッカと言ってもよく、人種のるつぼなるが所以である。

 こうしたインド料理の店だけでも市内に数十ヶ所もあるというから驚きである。修一と草山は艶やかな色のサリーで身を包んだ若いウェイトレスに案内されて奥まった場所のテーブル席についた。

 「草山さん、ぼくはインド料理についてほとんど知らないんです。おいしそうなものを適当に注文していただけませんか」 「そうか、じゃあこの前食べておいしいと思ったものでも注文しようか。そうだな、これとこれ」草山はウェイトレスに流暢な英語で注文した。

 ホテルの課長時代から、この人の英語力は群を抜いて上手だったが、それが長年のアメリカ暮らしでさらに磨きがかかり、そのアクセントも発音も、まさにネイティブスピーカー並であった。

 「草山さん、英語がずいぶんお上手ですね」 「そうかい、ぼくももう七年もこちらに居るからね。君だって現地人の間で働いているんだから、もう相当上達しただろう?」 「それがなかなか駄目なんですよ。まだ三分の一ぐらいは相手の言うことが理解できませんね。そうそう、ついこの前もそれで大恥をかいたんですよ。職場の友人が『プールへ行こう』と言うもんで、ぼくが『水着を持っていないから行けない』と言うと、その友人が笑いながら『お前なに言っているんだ。プールというのは玉突きのことだよ』って言うんですよ。ぼくはそんなことまったく知りませんでした」

 まだこんな程度ですから草山さんと比べれば横綱と幕下ぐらいの開きがありますよ。 「いやいやぼくだって来た当時はそうだったよ。まあ語学習得には恥をかくこともよくあるね。それだけ場数を踏まないといけないんだから」

 「ところで草山さん、先日の話の続きですが、二軒のレストランを閉めたあとはどうされたのですか?」 「ああその後ねえ」草山は手にしていたナイフとフォークを皿の上に戻しながら言った。

 「二軒の店が失敗に終わった後、はっきり言って、もう自分で経営するのはこりごりだと思ったね。たとえ給料が安くても人に使われている方が楽だ、というふうに考え方が変わってきたんだ。それであちこちと求職活動をした結果、キミ知ってるかなあ、五十二丁目にある炭焼きの焼き鳥を売り物にしている「将軍」っていう店。そこへ営業担当マネージャーとして就職したんだよ」

 「将軍ですか、確か名前は二~三度聞いたことがあります。で、今もそこへいらっしゃるんですか?」 「いや、今は二年前にそこが系列店としてオープンさせたイーストサイドの国連ビルの近くにある寿司バーの方へ回されてね、そこでチーフマネージャーをやっているんだよ」そう言いながら草山はポケットに手を入れ、店の名前が上部に大きく印刷された名刺を取り出して修一に渡した。

 修一はその名詞をしげしげと眺めながら尋ねた。「イーストサイドの国連の近くと言えば草山さん、この店ずいぶん高級なんでしょうね」 「さあどうかな、もっともお客の八割ぐらいは白人でね、日本人を含めてその他が二割というところで、客層はまあまあだがね」

 「そんなに白人客が多いのですか?」 「八割と言えば他の店に比べると多い方だね。でも大野くん、近頃では白人客が多いことだけを手離しで喜べないんだよ。客一人あたりの売り上げでは日本人商社マンあたりの方がうんと高いからね。要は客の構成の問題なんだ」草山のこの分析を聞いて修一は、なるほどな、と思った。

 「そうでしょうね。なにぶん日本人は世界一食費の高い本国で鍛えられているもんだから、食費のうんと安いこちらへ来ると、嬉しくなってつい使い方が派手に・・・」

 「うん、それもあるけど、もう一つは接待が多いことも大きいねえ、会社のお金ということと、相手に対するミエがあってね。でもねえ大野君」

 ここまで話した草山はなぜか急に深刻な表情になって修一を見た。

 「ぼくもこの歳になってレストランの雇われマネージャーをしていると思うと、つい情けなくなることがあるんだ。勤務は不規則だし、おまけに給料は安いし、それにお世辞にも社会的に地位が高いとは言えない職業だしね。でもぼくも今年でもう四十三歳、他にいい仕事も無いしねえ」 「おやおや草山さんらしくない弱音を吐いたりして、どうしたのですか?」

 修一は最初に会った日、別れたときの草山の後姿がなんとなく寂しげだったことを思い出していた。そしてあの寂しげな後姿は草山の人生における敗北感からきているのではないかと思った。

 「ところで大野くん、キミで今どれぐらい収入を得ているんだい?」草山は思わぬ方向へ話を転換させた。

 「ぼくですか、ぼくなんかまだ若造でたいしたことはありませんよ。でも日本ホテルから七百ドル、こちらのエールトンから貰う分が五百ドル、合計千二百ドルです」 「千二百ドルか、一ドル二百四十円として、約三十万円か、君の歳にしては立派な収入だよ。四十三歳の僕でさえ、今それだけあるかないかだからね」僕でさえそれだけあるかないか、と応えた草山のセリフには少し驚いた。彼の収入は思ったより少ないのだ。

 「まあ生活は日本から送ってくる分だけで十分のようですね。後の分は全部貯金してあります」 「そうか、羨ましいねえ、僕なんか家族四人で生活が一杯一杯でね」

 家族四人と聞いて、確か単身で来たはずの草山だったが、後に家族を呼び寄せたのだろう、と修一は思った。

 修一は聞かれたからとは言え、つまらぬことを喋ってしまったと後悔した。

 このことが草山にまた余分なコンプレックスを与えたのではないだろうか。別段特別に高い収入を得ているわけではないが、今の草山の前では収入の額は伏せておいた方がよかったのかもしれなかった。

(つづく)次回  9月3日(水)


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2014年8月30日土曜日

T.Ohhira エンターテイメントワールド(第40回) ・ 小説 「マンハッタン西97丁目」 第5章・7年ぶりの再会 (その5)



マンハッタン西97丁目 第5章 「7年ぶりの再会」 (その5) 

 二日目のベッドの中でのバーマは昨夜とすっかり様子が違っていた。最初のときのようながむしゃらさはすっかり影をひそめて、なんと言おうか、すごく落ち着いている様子で、修一の一つ一つの動きに対してゆっくりかつしっとりとした反応を示していた。 

 そして動きが一段落するたびに修一にいろいろな質問を浴びせてきた。「ねえサミー、日本の女性はこんなときどうなの?」とか、「経験したのは私で何人目なの?」だとか、「私と比べて他の人はどうだった?」とかのまず一般的な内容のものが多かった。しかしその中でさすががバーマと思わせる質問が一つあった。

 「人間の三大欲望の中で食べることと寝ることではみんなまず平均的なのに、もうひとつのセックスに関しては決して平均的でない、と私思うわ。これっておかしいと思わない?サミー」 「うーん、そう言えばそうだね。きみはこの五年間で僅か数回だと言うのに、そうかと言えば一週間に何回もという人もいるしねえ。でもこの問題は鋭すぎてぼくの頭ではすぐ答えが出ないよ」

 バーマに聞かれるまでもなく、修一も実際にそうだと思った。特に日本人においてはこの差は激しいのではないだろうか。


 この問題は今後真剣に考えてみるに値することだ、とそのとき思った。
 そんなとりとめもないことを話しているうちに、この夜の二人はは昨夜と比べてずいぶん早く眠りについた。

 草山との約束の日、修一は四時三十分ごろ迄にはウォルドーフアストリア一階ロビーにやってきていた。人に会うとき、相手いかんにかかわらず、常に約束時間より早く来るのが修一の習性である。ときどきこのことについて我ながら疑問を持つことがある。

 どうして自分はいつも早く来るのだろうか? 人を待たせることができないからなのだろうか?それはつまり小心だからなのだろうか。いや、そんなことはないだろう。人によっては遅れてくることで自分の優位を示そうとしたりするが、そんな人間を修一は「いやな奴」と思っている。そういうふうに自分は決してなりたくない。

 約束の時間より早く来るのは、単にそれだけの理由からかもしれない。そんなたわいないことを考えながらロビー中央のゆったりとしたソファに腰を下ろした。

 このウォルドーフアストリアはその歴史の上からも、また豪華さと格調の高さからもニューヨークが誇る世界屈指の高級ホテルである。著名人の宿泊が多く、日本から来る政治家にもこのホテルを宿とする人は多い。

 そんなホテルであるだけに、単にロビーを利用するだけのために入るには少し勇気がいり、たいていの人は玄関先で気後れして入るのを躊躇うに違いない。でも修一はホテルマンであり、勝手が分かっているだけに普通の人のようなことはない。どんなホテルへでも正面から堂々と入って行ける。

 高級そうな衣服を身につけロビーを行き来するハイソサイエティの人々を修一は飽きることもなく眺めながら、自分もいつの日にか、できたらこういう人々の仲間に入りたいものだ、と考えていた。

 玄関の方を向いていた修一の横手から「大野くん」という声がした。草山は約束の五分前にやってきた。 「やあ草山さん、そちらから来られたのですか?正面玄関の方へばかり目をやっていたものですから気がつきませんで」 「うん、どうもこのホテルの正面玄関からは入り難くてね。横手の小さい入口から入ってきたんだよ」

 草山は頭に手をやりながらやや照れくさそうに応えた。

 草山とて元は東京のれっきとした都市ホテルのマネージャーである。 修一以上にこうしたところの勝手は分かっているはずなのに、と修一はそうした彼の消極的な態度を少し怪訝に思った。たぶんいま置かれている状況が草山を自信なくさせているに違いない。修一はなんとなくそう思った。

「大野くん、どうもここは居心地が悪い。良かったら外へ出ないか?」
「いいですよ草山さん。食事をするにもここは少し高すぎますしね。この近くで手ごろなレストランでもご存知ですか?」 「うん、二ブロックほど行ったところに味のいいインドレストランがある。そこへでも行くかい?」それを聞いて修一に異存なく即座にうなづいた。

 真冬の日は短く、外へ出ると辺りにはもう夕闇が迫っていた。緯度が日本の青森と同じだというこのニューヨークの冬は恐ろしく寒い。道行く人はみな分厚いコートに身を包んでいる。

 そのインドレストランは大通りを少し入った古びた八階建てのビルの二階にあった。煤けた灰色の狭い階段を上がりながら草山が言った。 「ここは以前二回来たことがあるんだ。お見かけどおり高級とはいえないけれど、値段のわりにはなかなかいい物を出すんだよ。きっとキミも気に入ると思うよ」

 インド料理といえば、修一は過去一度だけ本場物に近いものを口にしたことがある。それは大阪であった万国博を見物に行ったときのことである。赤坂の修一の勤めているホテルに「シン」という名前のインド大使館に勤めている男性がよくやってきていたのだ。

 小柄で痩せていて、ともすれば貧相に見えがちなその風采をかろうじて顔面を覆う濃いヒゲが救っていた。彼はなかなか流暢な日本語を話し、それにいつもニコニコしていて人なつっこいところがあったせいか、修一を含めてホテルの従業員とはすっかり顔なじみになっていた。修一はホテルに勤めていて、それまでに多くのインド人客に接してきたが、どうももうひつつ彼らが好きになれず、どちらかと言えば嫌いな人種に属していた。そうなった経緯には理由があった。

 修一がまだルームボーイをしていたころ気がついたことなのだが、まず第一に彼らは非常に無作法なのである。ルームサービスで部屋に何かを運ばせるのはいいのだが、人の前で平気でオナラをするのである。最初のときはたまたま不注意かと、さして気に留めなかったが、二度、三度と同じことがあると、もうとても不注意などとは言っておられない。要はマナーが悪いのでる。

 そして二番目は人使いがすごく荒いことである。
 ルームサービスが多いのはホテルの売り上げが上がっていいのだが、注文の内容が良くなければそうとばかり言えない。例外はあったが、彼らが注文するものと言えば、いつも決まってポットに入ったホットウォーターであり、これを一日のうちに何度も注文するのでる。

 お茶を良く飲む習慣からであろうが、幾らの売り上げにもならないホットウォーターを一日に何度も部屋へ運ばせるのにはまったく閉口した。三番目はけちなくせに横柄なのだ。修一には過去インド人客からチップを貰った記憶がない。そのくせ、自分たちより目下の者となると露骨に横柄な態度をとる。
 
 だから修一らのホテルのボーイが相手となると、実に鼻持ちならない態度をとるのである。腹が立って「こんちくしょう!」と思ったことが何度あったことだろう。

 でもシンはそんなインド人とは違っていた。大使館員としてこの日本で生活しているからということもあったのだろうが、実に愛想のいい好人物であった。

 そのシンが万国博が始まる前のある日、修一に向かって、大阪の万国博に来たら是非インド館に寄るように勧めたのだ。自分はその期間ずっとそこへ居るのだ、と言う。修一が大阪の万国博へ行ったのは暑い盛りの七月の終わりの頃だった。

 その日の見物をそろそろ終えようという頃になって、シンの言葉を思い出し、インド館に彼を訪ねてみた。万国博には各々の国が特別な催し物をやる日があって、それを「ナショナルデイ」と呼んでいた。

 修一がシンを訪ねた日は、ちょうどインドのナショナルデイに日だったのである。シンはいつもと同じように人なつっこい笑顔で修一を迎え、「ユーはいい日にきた」と言った。この日ガナショナルデイのインド館では、夕方の六時から関係者を招いてパーティを開催することになっていたのだ。

 シンは修一に、ぜひバーティに出席するように、と勧めた。その日は大阪で一泊する予定だった修一に依存はなく、喜んでそのバーティに出席した。

 本場物に近いインド料理を口にしたのはそのときだったのである。どれもこれも香辛料がピリリと効いていて、いささか辛かったもののそのときの修一にとっては、すべての料理がすばらしく美味だったように覚えている。

(つづく)次回  8月31日(日)


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2014年8月27日水曜日

T.Ohhira エンターテイメントワールド(第39回) ・ 小説 「マンハッタン西97丁目」 第5章・7年ぶりの再会 (その4)



マンハッタン西97丁目 第5章 「7年ぶりの再会」 (その4) 

 それから半年が経った。草山らの必死の努力にもかかわらず売り上げは回復するどころか、一ヶ月平均が本支店併せて前年の三分の一まで落ち込んでいた。

 銀行への借入金の返済、六十人にも及ぶ本支店の従業員の管理、日々に減り行く売り上げの挽回策、正直言って草山らは疲れてきた。

 そして一週間ふたりで相談した結果、店を二つとも売却することにした。幸い本店の方はすぐ買い手が見つかった。地の利もあってニューヨークで三十年も営業している老舗の日本レストランオーナーが引き受けてくれた。問題は支店の方である。すぐそばに強力なライバル店ができたということもあって、なかなか同業者は食指を動かさなかった。

 それでも四方八方手を尽くした結果、やっとイタリア人のスーパー経営者が食品スーパーに改造するということで、かろうじて譲渡の商談がまとまった。

 二つの店の譲渡金から銀行借入金の返済、それに整理にかかわる諸々の費用を支払った後、経営者としての二人の銀行口座には僅か四千八百ドル残っただけで、出資金の七万ドルはきれいに消えていた。この五年間の苦闘はいったい何だったんだろう? 草山らは顔を見合わせてただ苦笑するだけであった。

 ここまで話し終えると、草山は弱々しい笑顔を修一に向けながら「それからね」とさらに話を続けようとしたが、コーヒーショップへきてかれこれ一時間がたとうとしており、さすがに修一は仕事のことが気になり始めた。

 「草山さん、今日お会いできてこうしてお話できたのは大変嬉しいのですが、なにぶん今は勤務中でして、そろそろ仕事に戻らなければなりません。よろしかったら日をあらためて近いうちにもう一度会っていただけませんか」

「ああそうだったね。ゴメンゴメン。ついうっかりしていて、じゃあ三日後の金曜日はどうだい?」 

 「いいですよ。ぼくはその日は丁度休みだし、草山さんの方は何時ごろがよろしいですか?」 「そうだな。夕方がいいけど、時間は君に任せるよ」

「そうですか。じゃあ五時ごろ、場所は、そうですね。ウォルドーフアストリアのロビーででも」 「ウォルドーフアストリアか、今のぼくはあんな豪華なホテルのは少し入りにくいんだけど、まあいいや、じゃあそうしよう」

 職場に戻った修一はマックに時間を大幅にオーバーしたことを詫びた。そんな修一をマックはまったく咎めなかったばかりか「いいよいいよユーの大事な友人のようだったし」とやさしいことを言ってくれた。

 職場が依然として閑散としていて暇だったせいか、修一にはロビーで別れたばかりの草山のことが気になり、帰るときのなんとなく寂しそうな後姿を思い出していた。

 十二時きっかりにアパートへ戻ってきた。中に入るとリビングルームは暗かったが、キチンの奥のバーマの部屋からは明かりが漏れていた。修一は自分の部屋へは戻らず直接彼女の部屋へと向かい、相変わらず半開きになっているドアをノックした。

 バーマは分かっているくせに茶目っ気をこめた声で「どなたかしら?」と言ってクスッと笑った。それには応えず修一は中へ入って行った。ベッドの中央部に壁に背をもたせかけたバーマがデンと腰掛けていた。長い足を前に投げ出し、手には分厚いペーパーバックを持っていた。 

 「本を読んでいたのか。ごめんね邪魔して」「邪魔だなんてサミー、丁度本を読むのに飽きてきた頃なの。よかったわ、帰ってきてくれて。今日ねえ、エセルの病院から電話があったのよ。三日後の金曜日に退院するんですって」

 修一はそれを聞きながら、同じ日の草山との約束を思い出していた。
 修一の少し怪訝そうな表情を見てとってバーマが言った。 「あら三日後の金甌日に何かあるの? それともエセルが病院から戻ってくるのがいやなの?」

「別にいやということはないよ。何しろここは彼女の家だし、いや金曜日の夕方に日本人の友人と会う約束があったもんでね」 「あらそうだったの。わたし病院からの電話を聞いたとき、せめてもう少しエセルが入院していてくれるといいのに、と思ったのよ」

 またしてもバーマは正直な胸のうちをストレートに明かして修一を戸惑わせた。
 「まいった、まいった。君は本当に正直なんだから」そう言いながら、修一は指で彼女のオデコをチョンと押した。

 「ところでその日のエセルの退院は何時ごろだい?」 「午後だと言ってたわ。たぶん昼食の済んだ二時か三時ごろぐらいじゃない。病院で車を手配するから迎えはいらないとは言ってたけど、わたし迎えに行こうと思ってるの。一日ぐらい学校を休んでもどうってことないし、なにしろエセルことではこれまでサミーにばかり世話をかけてるし、今度は私の番だわ」バーマはまじめな顔に戻って言った。

 「そうしてくれるとありがたいね。なにしろその日は仕事が四時に終わると五時には七年ぶりに再会した友人と会うことになっているのでね。本当は男のぼくが行けるといいんだけど」 

 「大丈夫よ、任しておいてサミー。それよりそうと決まったら早く昨夜の続きをやりましょうよ。なにしろ二人だけで過ごせる時間はもうあまり無いんだし」 

 「昨夜の続きと言ってもキミ、ぼくは今帰ったばかりだし、シャワーもまだ浴びていないんだし」 「あらサミー、何か勘違いしているんじゃなくって?いやねえ、わたしの言ったのは昨夜のバーティの続きのことなのよ」 「アッそうだったのか。ゴメンゴメン」修一は照れくさくなって手を頭にやった。
 二人を顔を見合わせて大笑いした。
 「バーマ、リビングもいいけど今夜はここキミの部屋でやろうよ。ぼくが飲物を運んでくるから」 「ええいいわよ、じゃあわたし冷蔵庫から食べ物を出すわ」
 バーマはそう言うとすばやくベッドから立ち上がった。

 「ねえサミー、これから何かを作るのも面倒だし、昨夜の残り物でいいかしら?」

 「オーケー、オーケー。こう見えてもぼくは親ゆずりで内臓だけは丈夫なんだから」 「どういう意味よそれ?」バーマはクスッと笑って肩をすぼめて見せた。

(つづく)次回  8月30日(土)


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2014年8月24日日曜日

T.Ohhira エンターテイメントワールド(第38回) ・ 小説 「マンハッタン西97丁目」 第5章・7年ぶりの再会 (その3)



マンハッタン西97丁目 第5章 「7年ぶりの再会」 (その3) 


 「本当にお久しぶりですねえ草山さん。突然のことで僕も、どなただったろうと、しばらく思い出せなかったぐらいです」

 チーフのマックにことわって修一は草山を伴いコーヒーショップへ行った。

 「あの節はいろいろお世話になりました。あの年の冬休みにもあのホテルへ伺ったのですが、お辞めになっていたので御礼も言えなくて、そういえばドアマンの方から草山さんがニューヨークへ行かれたことを聞いたのを今思い出しました。なにぶん七年前のことですから、これまですっかり忘れていました。あれからずっとこちらへいらっしゃったんですねえ」

 久しぶりに見る草山は七年前とはずいぶん変わっていた。年齢はもう四十二~三になっているのだろうか。あのホテルの課長だった頃のようなキリリとしたスマートさは影を潜め、身体全体には、なにか生活の疲れのようなものを漂わせていた。 

 当時は真っ黒だった頭髪にもすでに白いものが全体の三分の一ほど混じっており、張りのあった声もどちらかと言えば、ボソボソとした調子のものに変わっていた。

 「ところで草山さん。ぼくがここへいることはどうして?」

 「うん、ぼくは今ある日本レストランのマネージャをしているんだけど、常連客にN商事の山崎という人がいてね、その人かrエールトンに大野という日本人がいると聞いてね、歳かっこうからして、もしかしてキミかも知れないと思って来てみたんだよ。

 すると予想通り、東京のぼくのいたホテルでアルバイトをしていた君だった。正直言って驚いたよ。でももうあれから七年か。しかし君も出世したものだねえ」 

 「出世だなんて、冷やかさないでくださいよ。こちらに来られたのはちょっと運がよかっただけですよ。ところで草山さんは日本を離れてずっとどうだったんですか?」そう聞いた後で修一はこの質問は彼の苦い過去をほじくり出すようで良くないのでは、とできることなら取り消したい気がした。

 でも草山は別段悪びれる様子もなく、日本を離れたあとのことをいろいろ話してくれた。

 修一は時計を見てそろそろ職場に戻らねば、と思ったが、今日は客も少なくて暇なことだし、もう少しいいだろう、と思い直して草山の話をもうしばらく聞くことにした。

 ニューヨークに渡ってきた草山は、父親が出してくれた資金を元に、友人と共同出資で、かの有名なエンパイヤーステートビルからあまり離れていない四四丁目のオフィス街にすし屋を開店した。

 その時期はニューヨークでもまだ日本食のブームは全盛でなかったが、場所が良かったおかげで開店当初から予想を上回る売り上げがあった。カウンターだけで二十席ほどしかないあまり大きくない店であったが、日に日に客は増え、金曜日の夜などは店の前に行列ができきるほど繁盛していった。

 三年経って、計画の倍以上の売り上げに気を良くした草山とその友人は、今度はハドソン川を挟んだ対岸のニュージャージーに、前の店の三倍の規模を持つ家族向けの日本レストランに出店に踏み切った。ここも開店からしばらくはすこぶる好調で、またしても成功かに見えた。

 しかし好事魔多し、一年ぐらい経ったころ、日本本国から大手資本系列の寿司店が近くに進出してきて、そこに草山の店の有能な板前二名が引き抜かれてから様子がおかしくなってきた。去った板前と共に半分以上の常連客がそちらへ流れてしまったのだ。 売り上げは激減した。 

 草山らはあせった。このままでは銀行からの借入金さえ返せなくなる。折も折、信頼して任せていた四四丁目の本店のマネージャーが二週間分もの売り上げに相当する店の金を持ち逃げしたのである。

 金額にしておよそ一万八千ドル、これには草山もこたえた。まさにダブルパンチであった。急遽新しいマネージャーを採用したが、これがまたチャランポランな男で客の受けがさっぱり良くない。おかげでそれまで順調だったこちらの方の客足さえ鈍り始めた。

 新しい有能なマネージャーを求めたが、なにぶん日本レストランの進出ラッシュがあちこちで始まった時期であり、人材が極端に払底していて、これはという人物がなかなか見つからないまま、仕方なく頼りないマネージャーで辛抱していた。

 もっともその時の草山らは、本店の三倍の規模を持つ支店の経営の方が大切と考えており、なんとか取られた客を取り戻して元の状態まで挽回せねばと、そのことで頭が一杯であり、本店の経営については多少おざなりにしていたふしがあった。


(つづく)次回  8月27日(水)


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2014年8月23日土曜日

T.Ohhira エンターテイメントワールド(第37回) ・ 小説 「マンハッタン西97丁目」 第5章・7年ぶりの再会 (その2)



マンハッタン西97丁目 第5章 「7年ぶりの再会」 (その2)


 外へ出たとき、昨日と比べて足どりがずいぶん違っているな、と修一は思った。

 昨日の午後買い物に出かけたときはこんなふうではなかった。何かやたらとウキウキして、ふわふわと足が地に付かないような浮ついた気持ちだった。でも今は違う。なにか大きな仕事でも成し遂げた後のように、どっしりとした安心感があって、足もピッタリと地についている。僅か一日でこんなに違うものかと、人の気持ちの移り変わりとは、たわいなくもあり、また面白いものだと修一は思った。 

 この日、客の少ない閑散とした職場で所在なさげにフロントカウンターの上を整理していた修一に、思いもよらない訪問者があった。

 「やあ大野くん」と近づいて着たその人の顔を見たとき、はて誰だったかな?と、しばらくの間その名前を思い出せなかった。それほどその人とは長い間会っていなかったのだ。でも少ししてようやく名前を思い出した。

「やあ草山さんじゃあないですか。お久しぶりですねえ。でもどうしてここへ?」と驚きの表情で尋ねた。

「草山輝彦」もう七年も前のことだったが、ホテルマンを目指す修一がまだ大学三年生だった頃、夏休みのアルバイトをかねた職場での実地訓練にと、新宿のある中堅都市ホテルでドアボーイを四十日間ぐらい経験したことがあった。草山はそこでの監督上司で接客課長をしていたのだ。 

 面長でいつもキリリとした表情をしていて、少し冷たい印象はあるものの、そのホテルではエリートコースに乗った仕事のできる男であると、先輩ドアマンから聞いていた。なんとなく二人の相性がよかったのか、四十日のアルバイトの期間を通じて草山はあれこれと修一に目を掛けてくれていた。そして最後の日には、キミさえよければ卒業後もこのホテルで働けるように人事課へ頼んであげようか、とまで言ってくれたのだ。

 いま目の前にいるのがあの草山なのだ。
 
 修一は縁があったのか、その年の冬休みにもまたそこへアルバイトに出向いた。

 そして勤務に就くや否や草山のところへ挨拶に行った。草山の席はフロントデスクのカウンターの少し奥まったところにあったのだが、修一がそこへついてときには彼の姿は無く、席にはまだ会ったことがない中年の体格のいい男の人が座っていた。 

 「あのー、夏休みにもお世話になった大野修一と申しますが、草山課長にお会いしたいのですけど」修一は草山がいない不安も手伝っておそるおそる切り出した。 「ああ大野くんね。東南大学の」相手は修一の名前をすでに知っていた。

「草山と言ってたけど、君知らなかったのか? 彼はこの十月で退職したよ」

 修一は耳を疑った。あれほどバリバリ仕事ができて、このホテルきってのエリートといわれていたあの草山さんが突然辞めるなんて? そう思ってポカンとして突っ立っている修一に「私が彼の後任の東田だ。仕事のことで相談があったら、これからは私のところへきなさい」と、その新任課長は事務的な口調で言うと、さも何もなかったような表情で修一から視線を離した。

 修一はその後すぐ古株のドアマン山口に草山さんのことを尋ねた。 「彼のことねえ。ここでは話にくいので外の喫茶店へでも行こうか」山口はそう言って修一をつれて隣のビルの地下にある喫茶店に入った。 

 「草山さんね、惜しい人だったんだけどなあ。実はあの人、長いこと競馬に凝っていて会社のお金に手を出したんだよ。そりゃあ、このホテルにとっては貴重な人材だから、会社としても小額だと目を瞑っていられたんだろうが、なにぶん額が額だけにねえ。キミ幾らだと思う?八百万円もだよ。しかも長期にわたって。

 それが発覚して、この十月に辞めたんだよ」 「ヘェー、そうだったのですか」

 そんな平凡な相槌しか打てなかったのは、この山口の言ったことの意味がよく理解できなかったからなのだ。 ただなんとなく草山さんが良くないことをしたのだ、とだけ漠然と分かった。
 「それで草山さんはその後どこへ行かれたのですか?」

 「うん、ぼくもよく知らないんだけど、うわさではニューヨークで日本レストランをやっている知人を頼って、家族を残し単身でむこうに渡ったらしいよ。何しろプライドの人一倍強い彼のことだから、日本にはいたたまれなくなったんだろうね」

 修一はその後しばらくは草山のことが気になった。もし彼がこのホテルを辞めたりしなければ、彼の言葉に甘えて大学を卒業したらこのホテルの社員になっていかも知れないのだから。

 草山の突然の退社はいわば修一の運命も変えたのだ。そしてオーシマホテルからこのニューヨークへ派遣されている今、ここで再び草山と会っているのだ。なんとも不思議な縁ではないか。 

(つづく)次回  8月24日(日)


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2014年8月20日水曜日

T.Ohhira エンターテイメントワールド(第36回) ・ 小説 「マンハッタン西97丁目」 第5章・7年ぶりの再会 (その1)



マンハッタン西97丁目 第5章 「7年ぶりの再会」 (その1)


 カーテンの隙間から入り込む朝の陽のまぶしさで修一は目を覚ました。
 真冬の弱々しい太陽とはいえ、朝の陽の光はやはり目にしみる。白い天井を目にしながら一瞬過去の記憶が途切れて、自分は今どこにいるのだろう?と、妙な気持ちに襲われた。

 キチンの方からコトコトという音がしてハッと我にかえった。そうだ、昨夜はバーマと。そう思い出したとき、リビングの方からバーマの優しい声が聴こえてきた。

 「サミー、まだ寝ているの? もう十時を回ったのよ。朝食の用意も出来たし、そろそろ起きていらっしゃいよ」それはこれまでに耳にしたことのないほど生き生きとした声で、それまでの眠気とけだるさを一気に取り去るほど修一の耳にはすがすがしく響いた。「ああバーマかい。わかった今起きるよ」 我に返った修一は跳ね上がるように起き上がると、急いで衣服を身に着けた。

 洗面室へ行くとき、キチンでフライパンを手にして立っていたバーマが修一を見てニコッと微笑んだ。その微笑みは心なしか、いつもと違って少しはにかんだところがあるように修一には思えた。

 「おはようバーマ、よく眠れたかい?」修一も少し照れくさい思いで、そう尋ねながらテーブルについた。 「まあよく眠れたほうだわ。でも途中で一度目がさめたの、だってサミーったら、ゴーゴーと丸で雷のようなすごい鼾をかくんだもの」

 「それ本当?おかしいなあ、僕は普段からあまり鼾はかかないほうなんだけどなあ。でももしそうだとすると、昨夜はいろいろあって疲れていたせいかもしれないよ。君が寝ていると分かって僕が目をつむったのが、なにぶん三時過ぎだからね。それからさっきまでぐっすり寝込んでいたんだね。しかも滅多にかかない大いびきをかいてキミの安眠を妨げたなんて、知らないこととはいえゴメン、ゴメン」
 修一はバーマに向かってビョコンと頭を下げた。 

「それにしてもずいぶん豪華な朝食じゃないか。これ全部キミが作ったのかい?」「決まっているじゃない。エセルが病院から帰ってきたわけでもないのに、この私以外に誰がいるというのよ。こう見えても私だって女なのよ。たまにはこういうことをして、やれば出来るということを知っておいてもらわなくちゃね」

 日ごろエセルの質素な朝食を見慣れていた修一にとって、なんともそれはすばらしく豪華メニューであった。 

 ほんわりと湯気の上がっているポタージュスープをはじめ、こんがりと焼けたボリュームたっぷりのベーコンエッグ、青々とした野菜がポールから溢れんばかりのハムサラダ、丸切りになったサーモンの缶詰、ふわふわと柔らかそうなライ麦のパン、それに中央には修一がこちらへ来て以来、こんなにおいしい果物はない、と思っていたブルーベリーがお皿一杯に盛られていた。

 「そうだ。今日は一月一日なんだ!」修一が突然とんきょうな声を上げたので、バーマは口に運びかけたスープのスプーンを途中で止めてびっくりした表情で修一を見た。

 「僕の国日本ではねえバーマ、今日から三日間は「お正月」と言って、みんな仕事を休んでお祝いをするんだ」食事をしながら修一はずっと日本のお正月についてバーマに話して聞かせた。知らない東洋の国の風習についての話は彼女にとってすごく興味があったらしく、話の途中で何度も何度も質問を浴びせてきた。

 修一はその度にじっと彼女の目を見ながら丁寧に答えていた。

「私もいつか日本へ行ってみたいわ」バーマがポツリと言った。
「来たらいいじゃないか。僕のお嫁さんにでもなって」ジョークとも本気ともつかない言葉がふいに出かけたが、かろうじて喉元でそれを止めた。

 かれこれ二時間あまりも二人は話に熱中していて、気がついて時計を見るとすでに午後二時を差していた。修一はこの日も仕事があることを思い出した。

「バーマ、いやだけど今日も仕事があるんだよ。そろそろ出かける支度をしなくちゃあ」 「あら、そうだったわねえサミー。ここが日本じゃなくて残念ね。日本だと今日を含めて三日間はゆっくりしていられるいうのに」 「うん。でもね、日本でもホテルマンは例外なんだよ。なにぶん万国共通で年中無休の商売だし、交代で休みはするけれど、三日連続で休めることはまずないね。因果な商売だよ。

 もっとも日本ではこの期間に出勤するとサラリー以外に特別な金一封が出るのだけど、ここアメリカではそんなものも無いしね」 「郷に入れば郷に従えよ、サミー」 「その通りだ。とにかく僕行ってくるよ」

(つづく)次回  8月23日(土)


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2014年8月17日日曜日

T.Ohhira エンターテイメントワールド(第35回) ・ 小説 「マンハッタン西97丁目」 第4章・すばらしき1週間(その8)



マンハッタン西97丁目 第4章 「すばらしき1週間」 (その8) 


 「どうだったバーマ?」
 修一は行為の後で一般的に男性がする俗っぽい質問を彼女に向けた。

 「とてもよかったわサミー。なにかこぅ身体が宙に浮いているみたいですごっくいい気持ちだったわ。実はねえ、今だから言うんだけど、わたし以前からサミーとはやくこうなりたい、と思っていたの。わたしどちらかと言えばこうしたことでは消極的は方でしょう。カナダにいたときでもなかなか自分からはチャンスを作れなかったわ。だから過去のこうして経験はたった二度だけなの。サミーとの今夜のようなことは私にとってまだ三度目でしかないのよ。年のわりに遅れていると思うでしょう」

 「それはどうかな。欧米の女性はこうして面での発展家が多いと聴くけど、皆がそうだとは思っていなかったよ。ましてや君はお父さんは高校の教師と言う教育者の立場にある人で、厳格な家庭で育ったみたいだし」

「そのせいもあるけど、むしろ私が遅咲きのせいだと言うことの方が原因として強いわ。わたしねえ、十八歳までずっと女ばかりのミッションスクールへ行ってたの。

 そのせいで大切な思春期に男の子と接する機会がほとんどなかったの。
 大学に入ってからは男の人はたくさんいたのだけど、慣れてないせいか、肝心なところではいつもわたし後ろの方でウジウジしていてチャンスを逃すことが多かったわ」「つまり、家庭が厳格だったのと、男性に慣れていなかったことが原因なんだね」 修一はタバコをくゆらせながらそう相槌を打った。

 「過去の二回のことも、一回は大学の卒業パーティの日に女友達にそそのかされて好きでもなんでもない人となんとなくそうなっただけなの。正直言ってそのときセックスとはこんなに味けないものかと落胆したわ。おまけにその相手からは『この歳で初めてだなんて信じられない』という軽蔑の言葉を投げられたりして、私ショックだったわ。わたしねえ、それからしばらくの間は男性とのそうした交渉は一切もたなかったわ。

 でも確か二十四歳のときだったかしら、初めて自分の方から好きだと思う人が現れたの。その人とはそのとき通っていたトロントにある夜間のアートスクールで知り合ったのだけど、歳は七歳も上の三十一歳で、ドイツ系のカナダ人。仕事はコンピュータの技師をしていると言ってたわ。アートスクールのレッスンが終わった後、絵についていろいろ語り合ううちに次第に惹かれていったの。

 出会って三ヶ月ぐらいしてから彼のアパートでそれを許したとき、最初の経験での落胆とは違って今度はずいぶん充実したものになったわ。もちろん年齢的な彼の落ち着きとリードのうまさがあったからだとは思うのだけど」

「ふーん、そんな経験があったんだ。それでその人とは長く続いたの?」
 修一は興味半分の質問になっていないかと自問しながらそう聞いた。

 それまで仰向けになって喋っていたバーマはくるりと半回転して修一の胸に手を当てながら「それがねえサミー、ひどいな話なのよ。聞いて!」と、こんどはまるで哀願するような口調で話を続けた。

 「そのアートスクールには私を含めて生徒が三十人ばかりいたの。そのうち男性は七~八人であとはほとんどが二十代の女性ばかりで、中には私と違ってずいぶんきれいで魅力的な人も何人かいたわ。ある日レッスンが終わった後、髪の毛を直そうと化粧室に入ったの。

 そこには同じクラスの二人の女性がいたわ。二人とも私と違ってずいぶん派手ないでたちの人なの。鏡に向かって髪に櫛をいれているとき、その二人の会話が聞くともなしに耳に入ってきたわ。最初は他愛のない世間話をしているな、と思って聞いていたんだけど、一方の女性が「マイク」と言う男性の名前を言ったのが突然耳に入ってきたの。わたしハッとして、マイクって私が今付き合っている人のことかしら?。そう思って今度は耳をそばだてて聞いてたの。

 するとどうでしょうl。一方の端正だけどいつもツンとすましていて,まるで感情のない顔立ちの女性の方が、『わたし今日同じクラスのマイクとデートの約束をしてるの』と言ったの。しかも『付き合って一ヶ月しかならないのに今日でもう五回目だわ』と付け加えているのよ。

 わたしもうびっくりして思わず耳を疑ったわ。だってマイクと名のつくのは同じクラスに彼だけだし、やっぱり私の付き合っている人のことだとだんだん分かってきたの。マイクったら、ついその少し前わたしが『今夜食事に付き合って』と誘ったときこう言うの。『残念だけど今日は駄目なんだ。おふくろの誕生日でね。レッスンが終わったらすぐ実家まで車を飛ばさなければいけないんだ』と。

 それで『じゃあ私も一緒に連れてって』と言おうとしたんでけど、まだそれほど親しくはないんだ、と思って、なんとなく気後れを感じてそれは言えなかったわ。でもマイクの言ったことは大嘘、私を断ったのは、こともあろうにクラスの他の女の人とデートするためだったのだわ。それに、考えてみるとその女の人が付き合い始めて一ヶ月だとすると、彼は私をものにした後すご彼女に接近したんだわ。何食わぬ顔をして、悔しいったらなかったわ」

 そう言いながらバーマは本当に悔しそうな表情をして修一の首すじ辺りに目を向けていた。
 「それで君はそのことを直接彼に聞きただしたのかい?」
 手を彼女の首の下に回して修一はバーマに優しく尋ねた。

 「いいえ、そうはしなかったわ。そのかわり翌日からはもうそのアートスクールに行かなかったの」
 「つまり止めたのかい?」
 「ええそう。なぜって、その事実を知ってから二度とマイクの顔も相手の女性の顔も見たくなかったの。それにはスクールを辞めるしかないと思ったわ。本当は修了証書が貰えるまであと一ヶ月ぐらいしか残っていなかったので、なんとか最後までと思ったのだけど、私にはできなかったわ」

 「ふーん、キミってなかなか潔癖なんだね。それでそのドンファン氏からはその後連絡があったのかい?」
「二~三度電話があったみたい。でもわたし、何も話すことはないと言ってすぐ切ったわ」そういいながらバーマは修一の腕からゆっくりと頭を外し、くるりと身体を回転させてうつ伏せになった。つられて修一も同じようにした。
 シーツにくるまれた彼女の腰から臀部にかけての曲線が修一の目にまぶしく映り、身体に再び回復する気配を感じさせた。気を落ち着かせようとタバコに火をつけて深く吸い込んだ。

 「私の過去の男性経験と言えばたかがこんなものなのよ。 どう?くだらないでしょう」 「別にくだらないとは思わないけど、要するに過去二人の男性がいずれも不真面目な連中だっただけで、最初がそうだったために君としてはやや男性不信に陥ってしまった。そうだろう?」 「その通りだわ。それから今日まで、もうどんな男にも指一本触らせなかったわ。五年以上もよ」
 
 そう言いながらバーマは修一のほうを向いてクスッと笑った。
「ということは僕は君のとって五年ぶり三人目の男というわけか」
「その通りだわ。しかも三度目の正直で、今度こそいい人に当たったみたいだし」

 いい人などと言われて修一はくすぐったい気がした。はたしていい人が留守の女性の部屋に入って下着をまさぐったり、入浴姿を盗み見しようと、壁に穴を開けようとしたりするであろうか。そんなことを考えながら修一は黙ってタバコをふかしていた。 「ねえサミー、今だから言うんだけど、実はわたし何度かあなたを誘惑しようとしたことがあるの」バーマが突然驚くべきことを言った。

 「えっ、今なんて言った? 君が僕を誘惑しようとしただって! いったいそれはどういうこと?」修一はその意味が皆目分からず怪訝な表情で尋ねた。

 「あれは私がこのアパートへ来て一週間ぐらいのときだったと思うわ。部屋で洗濯した下着を整理しながらサミーのことを考えていたの。そのときふと、ひょっとしてこの下着をサミーに見せたら、と思ったの。幸い部屋は外から施錠できないし、出るとき少しドアの隙間を空けていたら、サミーが興味半分にここへ入ってくるかもしれない。そう考えて、わたしなるべく派手な下着ばかり選んでベッドの上に並べたておいたの。乾かしているように見せかけてね」

 バーマのこの予期せぬ告白に修一は内心すっかり慌ててしまった。まさか!とも思った。これまで思い出すたびに恥ずかしくて仕方がなかったあのことが、彼女に仕組まれたことだったとは。これが驚かずにいられようか。でも、ドキドキして落ち着かない気持ちをかろうじて抑えると、 

 「下着をベッドの上に並べただって?君も面白いことをするんだねえ」などと言ってしらばっくれていた。

 「そうなのよ。おかしいでしょう。それから学校へ行ったんだけど、、帰ってくるまでずっと、どうかあれをサミーが見てくれたらいいのになあ、って願ってたわ。ところが帰ってきてベッドの上を見ると何一つ並べたときと様子が変わっていないじゃない。わたしガッカリしたわ。サミーはやっぱりここへは入ってこなかったのだと」 「ふーん」と返事はしたものの、修一はそのあと言葉に詰まった。

 ここで「実は僕はキミの思惑通り部屋に入ったんだよ」と応えてしまっていいものかどうか、そして見るだけでなく、それに顔を埋めたりしたのだ。ということを。

 修一のそんな気持ちを知るよしもなく、バーマがまた口を開いた。

 「それからわたしこんなこともしたの。ある夜バスルームへシャワーを浴びに行ったの。そのときサミーが部屋にいることは知ってたわ。あなたの部屋ってバスルームと壁続きでしょう? それでなんとか私がバスルームに入っていることを気付かそうと思って、シャワーをを思いっきりだしてそれからわざとバシャバシャと大きな音を立てるようにしたわ。その音をサミーに聞いてほしいと思ったの。それからわたし、今ここにサミーが入ってくればいいのになあ、なんて考えていたの。

 でもいくら音を立てても何の音沙汰もなくてガッカリしたわ」
「音沙汰がないどころか、こっちはこっちでそのとき大変だったんだ」よほどそう言おうとしたのだが、またしても言葉にならなかった。そのかわりに「さっきの下着のことといい、このバスルームのことといい、キミも見かけによらずずいぶん大胆なことをするんだねえ」と、つじつま合わせのセルフを吐いていた。

 ここまでバーマの話を聞いて修一ははっきり気がついた。今夜彼女とこうなったプロセスにおいて、その主導権はすべて彼女にあったのだと。自分はやたらと陰でごそごそしただけで、なんら意思表示のための積極的行動はとっていなかったのだ。

 女でもここまで言えるというのに、われながらなんと情けないことか。これでは単に結果よしの棚ボタと変わらないではないか。 そんなふうにあれこれと考えた末、「よし、この際自分の行動についてもはっきり言っておこうと決意した。

 「実はねえバーマ」寝返りを打ちながらそう言った修一の言葉に何の反応も返ってこなかった。そのかわりに聞こえてきたのは「スヤスヤ」という心地よさそうな寝息の音だけであった。

 「あーあ、またしても」と、軽いため息をついて目を閉じると、修一にもドッと睡魔が襲ってきた。 (第4章 おわり)

(つづく)次回  8月20日(水)


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